2008年6月25日水曜日

家庭環境

大学時代の友に会いにいった。
2001年の学部入学のガイダンスのときに、「東京から来てるんだね」と僕の方から声をかけた。
たまたま隣り合わせた大講義室のなかでのことである。それからもう7年が過ぎた。
一蓮托生という言葉がある。彼についてはそんな言葉が僕との関係の上で成り立っているように感じることがしばしばある。

現在彼は日本の最高学府で人類の遺伝子についての研究を進めている。ここで研究内容を詳細に記すことはできないが、正直面白いと思った。遺伝子は本来はすべてが必要なものとして生物学的に生まれてきたものなのだが、現代の人間においてはそれが裏目に出ることがある。悪しきは食生活などの生活習慣であると。そんな感じの内容だ。酒の席では神経を集中させて内容を聞かないとそう簡単に理解できることではなかった。いまだによく分からない点もある。なにせ最先端の研究である。論理構築が非常に困難で、発表に妥協するとすぐに論駁される危険性を感じた。初回の公表の場が勝負だろう。応援する。

ただしその危険性もかなり希薄なものかもしれない。というのも彼は論理的思考力に優れているが、そこに非常に大きなバックグラウンドを感じたからである。

特定すれば、家族間での会話である。僕は彼の家に泊めてもらい、その環境を覗き見た。まず感じたことは家族同士で会話が多い。そして、会話のなかで論理的に甘い部分があると、その他のメンバーも含め突き詰める。大学院生活が長いこともあるだろうが、こういった幼少期からの家族間での会話のキャッチボールを着実にしてきたからこそ、僕との会話でも論理的だし、逆に理解力があると感じさせるのではないだろうか。それが学会などの場で活かされるまでに昇華していくのだろう。

対称的に僕の方は言葉で理解させられることよりは感覚的なことの方が多かった気がする。おかげで人の表情や行動を見ることで何を考えているか察知することは得意な方だ。もともと動物が好きで小さい頃から動物の喜怒哀楽に触れてきたこともある。そんなことも影響しているのかもしれないが、辿るとそれも父親が動物番組を良く見ていたことからの影響である。それを考えると、人の性格/思考回路というのは遺伝的な要因もあるだろうが、結局のところ家庭環境からの影響が強く出るのだと改めて考えさせられた。

2008年6月21日土曜日

Darwin exhibition




ダーウィン展に行った。
時間があったので、すべての活字解説に目を通した。ダーウィンは22歳のころ、運よくビーグル号に乗船でき、世界一周の旅に出た。そこの解説のある一節が非常に印象に残っている。「ダーウィンは出発前は無知な収集家だったが、5年後帰った時には一流の博物学者になっていた。」と。 また、船舶滞在中は膨大な量の書物を読んでいて、一流の地質学者や生物学者との手紙でのやり取りをしていたということも非常に興味深かった。
もちろんダーウィンは自分の力だけでそういったチャンスを物にしていったわけではなく、もともと名家の生まれで非常に環境に恵まれていたこと、それによって世界の一流人物とコンタクトを取るチャンスにも恵まれていたことは覚えておかなくてはならない。ただし、それらの恵まれた境遇を棒に振らず、貪欲に、自分の興味のために利用していった強かさには感心させられる。アメリカの16代大統領であったエイブラハム・リンカーンと35代のジョン・F・ケネディが比較されることがよくある。そこである作家がケネディのほうが立派だったという。それはなぜか。リンカーンは貧しい家に生まれ、生きていくための勉学が必然だった。やらなければ死を意味する環境だった。それでのし上がった。対するケネディは裕福な家の生まれで、のほほんと遊んで暮らせた。しかしそんな何もしなくていい環境に生まれながら、非常に強い問題意識と情熱を身に付けていった。そこがケネディの偉いところだという。これには納得させられた。
ダーウィンも境遇としてはケネディのそれと似ていたのだと思う。非常なまでの、今で言うオタク的な好奇心でチャンスを活かすことを考えていった。
そんな経緯が展示で伺えたため、面白かった。

先述したが、5年間という月日がダーウィンを変えた。その航海での彼のしるした日記の内容には、船酔いしながらも胸の躍るような生物種との出会いや、興奮しきった状態で語る地質変動の一説が翻訳されていた。この5年間で、膨大な量の情報(intelligence)と自ら構築した転成説(後の進化論)をもって、その後生涯をかけて論理構成する(進化論を完成させる)ための素地を作った。この5年間は現代になって知られた、当時にしてみればダーウィンにとっての修業時代だったといえる。
僕は偉人たちの自伝を読むのが好きだが決まって共通する点を見出す。そしてそこがその本の核ということになるのだが、すべての偉人たちに共通する点は、ジャーナリストの立花氏の言葉を借りれば、「謎の空白時代」をすごしているという点である。謎の空白時代とは、世間一般、誰にも知られること無く、長い間修業し、知識や技術を自分のなかに蓄積することである。20代でそれを過ごした後、30代で、その知識や技術をアウトプットしていく。この将来のための知識・経験の蓄えが、本人の身を支える。どんなに貧しかろうが裕福であろうが自分に対する自信を持つに至るこの時代。そんな確固たる自分を築く時代が謎の空白時代である。偉人と言われるが天才ではない。すべてが興味に対する固執と努力から成る、言うなれば創作である。


2008年6月17日火曜日

Adventure on my own risk

アラスカ大学のハウジングサービスの方と電話で連絡を取った。
こちらから一ヶ月前に送った寮の申請書に関してなんの応答も無かったからだ。

電話をしてみて改めて「まずい」と思った。
電話でのネイティブとのやり取りはかなり難しい。
自分がアラスカに渡るまでのうちにこの申請と、授業登録と、編入の申請は電話で済ますしか方法は無い。
とりあえず、今回のコンタクトは大学側から、寮に関しての説明をメールで送るから、それについて返信してね。と3回くらい繰り返してもらって納得した。

僕のこれからの旅の最大の障壁となることだろう。勉強せねば。

2008年6月8日日曜日

catch a cold

3年ぶりくらいになるのか、風邪をひいた。
風邪をひく前触れのようなものが無く対処できなかった。
振り返ってみると原因は睡眠不足とバイオリズムの不節制からなのはわかった。
いまは留学のためにお金を少しでも稼がないといけないことと、そのなかでの留学準備に割く時間を捻出すること。これらが体を置き去りにしていた。
いつでも気持ちと肉体とのバランスが崩れると、というよりは気持ちが肉体への配慮を怠ると必ず風邪をひく。

布団のなかで久しぶりにネガティブな考えが進行した。
本当に自分はアラスカ大学へ行こうとしている。なんのための回り道か。何しにいくのか。行ったところで何になるのか。自分ごときが留学なんてそもそも贅沢で傲慢な考えだったのではないか。20年後もこうやって風邪を引いてしまったとき自分独りで・・・。果たしてこれでいいのか。
そんな先の見えない不安が覆った。

いままでにもこのような考えは幾度となく過ったことがあって、体の調子が戻れば乗切る自信がまた戻ってくることを知っていた。これから新天地で何をやってどう乗切るかということに対しては、根底である「健康の維持」が欠かせない。しかし、こういった不安が過ることは大切だという考えがある。風邪を引いている時は精神も衰弱していて、非常に猜疑的に自分を見るし、自己否定的にもなる。普段見えない自分の側面と、いつも自分を鼓舞して常に自己肯定していく考えとは対称的なものの見方ができて、逆にバランスが取れる。それに、回復した後、特に将来のことを考えるときは楽観視しすぎるきらいがある自分を戒める意味でも。

今後、冷静に本質を見抜いていかなくては生きていけないと思う。このさき2年間は風邪を引いている余裕など無い。つねに攻撃的にいかなくてはならないしそのつもりである。風邪を引かなくてもディフェンシブなものの見方を要所取り入れていけるようになりたいものだ。