2010年12月24日金曜日

対談 写真家

今日勤務先の会社が提携している写真家の方と食事をする機会に恵まれた。
Y氏の撮影テーマはアラスカとオーストラリアがメインで、日本を拠点としている。

いくつか興味深い話の中でもっとも印象的だったのが、いまでもテントでの生活が自分になじんでいて基本の生活スタイルだということ。ご本人は今年還暦を迎える巨匠クラスの方で、厳しさを内に押さえた物腰の軽い社交性を感じさせる人であった。
オーストラリアでの、一日中太陽と星の入れ替わりを360度視界の開けた広野で見続けたという経験談は印象的。

話は、僕からの空気を読まない、急で本質的な質問から入ったため人生哲学的な内容に。

Y氏「人って一度生活水準を上げると戻れないってのがあるでしょ。僕にはそれが必要ないの。マンションでもベランダでテントはって寝てんだから(笑)」

Y氏「いまでも有名にならなきゃだめだよって周りからいわれるけど、じぶんは富とか名声とかってのに全く興味がないんだよ。僕の師匠の白川義員に師事したために反面教師になってね。彼は非常に名声にこだわった。」

中島「でも名声っていうと大げさですが、そこから広がるチャンスもあるんじゃないですか?」

Y氏「たしかにあるよね。でもアシスタントについてしばらくして、師匠みたいなこんな人生おくるもんじゃないって思ったよ」
(白川師匠について、写真のためならどんなことでもやった、と言ったニュアンスの話があり)
Y氏「それから反面教師になっちゃってね。」

中島「徒弟制度って今ほとんど聞かないですよね。学べることも多いんじゃないですか」

Y氏「全米の国立公園全部まわったのはよかった。アラスカに来てなかったら写真やってなかっただろうし。」

(記憶抜け)

Y氏「お金は必要だね。それはたしか。」

Y氏「いまテレビに出て有名になった戦場カメラマンの渡辺っているでしょ。あれなんかも僕と同じ考えではある」「有名になりたいってんじゃなくて、写真撮りにいきたいための金集めでしょ」

中島「自分でも公言してましたよね」

Y氏「結局そうやって稼いだお金って全部使っちゃうんだよ。撮影で。」

Y氏「俺もかなり稼いでた時期があってね。いま思えばもう少し残しときゃ良かった(笑)昔とは(経済)状況が全く違うからね。大変。昔は営業なんてしなくたって雑誌の仕事なんかもたくさんきたからね」

中島「え?営業してないんですか?(これには驚き)」

Y氏「うん。いまもまったく(笑)」


話題は、死ぬまで写真を追求できる可能性について

中島「以前動物カメラマンの方とお会いして印象に残っていることですが、フリーカメラマンって自分の意志如何によっては死ぬまで続けられますよね。」


Y氏「それはあるね。雇用されているわけではないからね」

Y氏「でも結婚してしばらくすると考え方も状況も変わるよ」

中島「たしかに自分の行動に制限はかかるでしょうね。長期撮影行はできないとか」

Y氏「でも、それにしても70歳にしていい写真たくさん撮ってる人もいるからね。そういうかたちもあると思う。早期定年から本腰入れるとか。ほら、いまは60でも若いっていわれるくらいでしょ?」

(そういえば以前お会いしたカメラマンの方は定年以降になって、持ち株を売りながら行きたい撮影地へ飛び回っている人だった。)

中島「そういうパターンの方意外に多いですよね。」

Y氏「若いうちからずっとやってるとあるところで選択しなければならないところが出てくるよ」

中島「選択!?とは?」

Y氏「自分の写真、やめるかやめないか」





ここで会話は仕事の話題へ移行し写真トークは終了。終始冗談混じりで楽しく食事をさせていただいた。
知識ではない実地で学べる知恵とプロの思考については師匠につかないと得られない。そんな教えを自分は求めている!などということはいえなかった。が、これに関しては継続的にいい機会に恵まれそうだという感覚も得た食事会だった。

2010年12月17日金曜日

2010年12月16日木曜日

謙虚さ VS 達成感


岩瀬大輔という人の本をアマゾンで読んでいたときに、近頃写真について倦怠感のようなうやむやがたまっている原因がこれでわかった。
それはここ最近達成感を何も感じていないということだった。

いままであまりにもレベルの高いプロ写真家の作品を手本にして来たせいで、気付かぬうちに自分の作品と彼らのものを比較するようになっていた。経験もセンスも基本的な撮影技術レベルも違うプロの写真家と対等に比較などするものではない。自分のレベルを計る時にはいいだろうが、慢性的にそんなことをしていると、自分の写真に自信をなくすだけである。達成感も何もない。要するに、最近自分は浮き足立っていた。3段抜かしでプロの作品に並ぼうなど段を踏み外すだけだ。過信していたのかもしれない。正直、焦燥感もあった。そのせいで撮影後の画像処理も今見ると去年に比べて過度に行っているものが多い。自然写真が人工写真になっていく過程である。ごまかすつもりはなくても写真にはそれが現れるということを知った。

そんな焦燥感を落ち着かせてくれるのは自分にとっては本であった。普段写真以外の本では芸術に関するものや古典を読むことが多いのだが、久しぶりになにげなく自己啓発本を手にした。二十歳の頃これでもかという程読みあさったジャンルである。ここに自分を謙虚にする原点があった。謙虚さは自分を正しく評価する。本来の自分の性格に謙虚さが備わっていないことは自覚していたのだが、いままで自己啓発本によって自分の謙虚さを維持していたのだということは知らなかった。ここで学んだ重要なことは、謙虚さを取り戻すことで、地に足をつけた評価を自分に下し、小さいことにも達成感を覚える、ということ。達成感は自分の職業が生き物であるとするならばその餌に等しい。枯れれば飢えるし、摂りすぎれば肥える。そしてこの感覚を得るには謙虚である必要がある。

ときおり自己啓発本を読むことで自分へ謙虚さを備え付け、食べ物が自分の体の一部になると同じように、徐々にこれを自分のものにできれはいいと思っている。 つい先週ガイドをしたときのお客さんが言っていた。「人間万事塞翁が馬」とは中国の故事で、幸不幸は予想のできないことのたとえである。日々起こる出来事に一喜一憂することなく、幸福がいつ禍いになるかも、禍いがいつ幸福に転じるかもわからないのだから、甲の日も乙の日も落ち着いていられよ。ということである。謙虚さの根源はこのたとえにあるように感じた。
これは若者が思考し味得することではないけれど、謙虚さを自分のものにする上でときおりこのように反省してみることには価値がある。

2010年12月2日木曜日

コーヒー(新書本的に記述・・・)

写真以外ついての書記はかなり久しぶりになる。ここ最近写真だけしか考えてなかった気がする・・・。
気分を変えて、題はコーヒー。
コーヒーの作用について「生活の知恵」的に書こうと書き出したが、放っておくとスクロールしきれない程連ねてしまいそうだったので、ある程度まとめた。

以前から意識していたコーヒーの作用。このコーヒーこそ唯一、直接かつコンスタントに自分を鼓舞してくれる飲み物である。酒はだめ。お酒とコーヒーとのコラボもだめ。使い方、と言うと変だがコーヒーの効用こそが大事である。
お酒に酔って得たその場の気分の高揚は、後日の自分にいい影響をもたらすことはない。その場だけの感情の高揚にとどまる。そのとき楽しいのは間違いないけど。。。
これに反して、コーヒーによる感情と感覚の高揚は深い信念にまで届き、かつ記憶される。この違いに気付いてからはコーヒーを飲むときは真剣に飲むようになった。そしてそれ以来コーヒーについては自分を実験台にしてかなり研究した。その効果は確かにカフェインの効果に近い、しかし他のカフェインを含む飲み物も色々ためしたのだが、コーヒーのようには行かない。カフェインだけの作用ではない、コーヒーの効用である。

一番大きなコーヒーの効用は、10年間考察して来てやはり「広範囲に渡る集中力」が得られることである。
勉強の前や議論などの前、ある一つの問題に対して深く追求していきたい時、コーヒーを飲む。これで集中力が上がるのは間違いないのだが、それだけではない他のカフェインにない何らかのコーヒーの特徴が現れる。広範囲に渡って意識が行き渡るのである。これによって、思いもよらない物をつなぎあわせたり編みだしたりする。撮影において「置きピン」という技術があるけれど、そんな技術に名前があることなどつい最近知った。これは自分でコーヒーで編みだしたようなものだ。
ちなみにバルザックもコーヒーで作品を書いたと言われている。いらない知識か・・・。 


世の全ては+と−の原理、もちろんいいところだけではない。

危険なのは運動の前に、集中力を上げようと飲むのは間違いだということ。無理が利いてしまうので、足などつりやすくなることや長時間歩き続けて体が疲れてもいくらでも歩き続けることができてしまうので、故障を来す。これはコーヒーが体に直接作用する感覚ではない。どうやら筋肉などのストッパーをコーヒーがちょこっとずらすような感じで、身体の正確な状態がわからなくなる。とにかく体を動かす前は避けている。

長期間飲み続けるのもよくない。だいたい自分の場合スターバックスのグランデサイズで1日1杯、5日続けて飲むと、1日はダウン、次の1日は倦怠感を背負い込む。この1週間は3ヶ月は続けられない。また、飲み続けの3日目すなわち3杯目からは効き目が悪くなる。ついもう一杯飲みたくなるが、飲むと決まって眠れなくなる。それを覚悟で飲むときもあることはあるけれど、やらない方がいい。

一度に自分の許容量を超えて飲むのも良くない。体調があるので、日によって効果の度合いは違うが、許容量をすこし超えた場合、あらゆる問題点、気になる点が浮上して来て考えはまとまらなくなる。広範囲に意識を渡らせる力が、一つのことに集中する力を軽く超えてしまって思考が無秩序状態になるのである。

ダウン時の対処法も意識しておかなければならない。ダウンと言ってもばったりとして何もできなくなる訳ではないのだが、何もしたくなくなることはある。そして全てをネガティブにとらえることだってある。これは経験から言えるが、間違いなくコーヒーを飲んだ後に来る状態であり、また、その日の許容量を超えた分とダウンの激しさは比例する。ダウン時には、これをコーヒーの二次的な作用だと自覚して、平気で居ることで全く問題なくなる。しかし、これを意識できないと、ネガティブな思考を本気で考え始めたりするので始末が悪い。お風呂やテレビ、映画などの、五感が受動的に支配されるエンタメに近いことをすることで簡単に阻止できる。

ここまで書いて来て、なにやら「やさしい麻薬の使い方」ような危険な書き方をしているようだが、コーヒーは 一時的にダウンすれば次に回復して、依存性はない。このことの真実性は、「辞める辞めない」の話がでないことから保証される。「わたし、コーヒーを辞めようと思うの」なんてこと聞いたことがない。

結局注意点は、飲んだときにおこなう「判断を誤らないようにする」ことに尽きる。なぜなら、コーヒーを飲めば意識が広範囲に渡るが、基本的にポジティブな思考で考え続けるからである。ポジティブ思考はときに冷静な判断ができない。何かについての評価を鋭く考えようとコーヒーを飲む場合、次ぎにくるダウン時にも必ず同じように評価してみなければならない。そうすることでポジティブだけに偏らず、利点欠点が見えてくる。

水と光の関係





2010年11月22日月曜日

マイケルクイントン研究 -part 1-



Michael Quinton の作品

※マイケルクイントンはアラスカ在住のナショジオフォトグラファーで、特に動物を対象としたときの彼の作品には注目すべきである。写真家本人についてはまたの機会に記述する。

比べるに値すべき写真を持ってくるべきだが、第一考察では自分の写真の中からクイントンのストックの中に似たものを探し、比較してみることにする。差のわかりきった写真の比較から始めた方が、後の考察へ発展させやすいこともあるためである。

まず、基本撮影データ予測をした後に、クイントンが良い作品制作に成功しているポイントを挙げていく。

基本撮影データ予測:1/250 f/5.6 ISO 100 300mm 日の出から30分 やや雲天

① 背景のぼかしによって対象を浮き立たせている(基本)②対象の露出の適正 ③背景の色とトーンを対象である白鳥の白との大きな対比としている。④太陽の角度が低くややオーバーキャストの光を用いてドラマチックに仕上げている。⑤対象の白鳥の毛並みが良い。⑥対象のシンプルな特徴とシンプルな背景という単純だが力強い構図に仕上げている。⑦湖面に反射する白鳥をやや波立たせることで本物をより強調している。⑧アイレベルに近いアングル(やや高い位置から撮影している)。


自分で撮影したもの

次に、自分の写真の問題点をクイントンの写真の利点を活かした考察をしてみる。❶対象と湖面とのトーンが似通っているために、白鳥が中途半端に主張している。❷トウヒの黒い反射が紅葉と白鳥のトーンを邪魔している。❸白鳥が後ろむき(前向きであれば少し力強さが増すだろう)❹対象の二羽の占める割合が狭いため縦位置構図を無駄に使っている。❺対象に近づけきれていない。

総評してみると、やはり自分の対象に対する研究不足ということになるだろう。白鳥のシンプルな体の作りと色、毛並みの良い季節、行動様式を最低でも知った上で、このモチーフの写真を撮る必要がある。実際にこのときは白鳥を撮ろうとして撮影に出かけた訳ではなく、見つけたので撮ったのである。かけた時間もわずか1時間半ほど。この場合、白鳥をモチーフにするのであれば、先の事前知識が必ず必要であった。したがって、そのときの自分の撮影状況であれば、風景(紅葉)を対象とし、ポイントとして白鳥を入れるのが正しい対象選びであったということになるだろう。写真そのものについてのまとめとしてはクイントンが対象をはっきりさせ、それを引き立たせる技術を駆使させているのに対し、自分の対象は中途半端であるという点に尽きる。

2010年11月19日金曜日

Extention Tube



エクステンションチューブはノーマルレンズでクローズアップ写真を撮ることができる便利な道具。簡単に言えば普通のレンズをマクロレンズに換えることができるもの。上の写真が実物だが、見てのとおり3つのセクションに別れていて、使い分けることができる。


それぞれ左から36mm、20mm、12mm。組み合わせによって7段階の長さを使い分けられるのだが、この長さは、焦点距離を変えることで、被写界深度の幅と対象との距離を変えることができ、表現は微妙に変わってくる。


この写真は20mm単体で50mmのレンズに取り付けて撮影したもの。
対象との距離を近づけることができるので全く違う視点でとれる、というのはマクロレンズと同じ。
このチューブの利点はどのレンズにも取り付けることができるということ。なので、超望遠レンズに取り付けて、背景を思い切ってぼかしたいときにも使える。要するにすべてのレンズをマクロレンズに換えることができる。
反対に、欠点は暗くなるということ。純粋なマクロレンズだとこれがとても明るいので手持ちでも気軽にいける。しかし、普通のレンズにチューブを取り付けてマクロレンズにしたものでは、たとえば20mmのチューブで1.3段ほど暗くなる。そのため同じ露出を得るために何か(シャッタースピード、絞り、ISOのどれか)を犠牲にしなければならない。ただ、もともとクローズアップ写真は動く物や速いシャッタースピートが要求される対象には適していない写真のジャンルなので、そこは三脚を使えば解決できる。
(この暗くなる度合いは、20mmレンズが伸びるのでそのぶん光量が必要になるという理論よりももう少し暗くなっている気がする。)

 取り付けは簡単で、レンズとボディとの間に挟むだけ。





2010年11月8日月曜日

機会の詩

 DAWN OF THE LAGOON, FROSTED AND COVERED WITH SNOW

SNOW CREEPING INTO FOREST

MALLARD SHIVERING IN COLD WATER THEN THE SUN RISING

EAGLE TAKING ITS WINGS,

OR SCRAMBLING FOR PERCH
SUN LIGHT HITTING ON THE SNOW

MELTED A PART OF THE LAGOON MIRRORS KINGFISHER
RIVER OTTER GROOMING ITS WET FUR

EAGLE PASSING IN FRONT OF THE FOREST OF SITKA SPRUCE AGAIN AND

AGAIN, SNOW COVERED DEEPLY

2010年11月4日木曜日

Snow Moose

Sunrise of Glen Alps

アンカレッジが雪に覆われた。例年よりもずいぶん遅れての積雪。アンカレッジの裏庭、グレンアルプスもほぼ同じ日に覆われた。ムースたちは雪が降っても元気。この日は貧相な角の雄二頭が雪まみれになってじゃれあう姿が見られた。

face to face

walkin together

Affiliative display

Sperring


雪が降ったせいかムースの起床とともに開始する採餌行動が普段よりも遅かったような気がした。いつもなら日の出よりも早く行動を開始しているけれど、この日は光がアルプスの谷間に差し込む時にムースはまだうずくまっていた。
繁殖のシーズンも終わりに近づき、寒さに耐え忍ぶ季節の始まり。







flehmen; male calling to female

2010年10月24日日曜日

Moose in estrus


Fighting Bulls





Kissing Moose


秋、9月半ばから11月の初旬まで、パートナーを探しながら歩き回る。上の写真は最上位の雄ムースと小川の方からやってきた雌ムース。このあいさつでお互いのほとんどを知る。


Fighting Moose

スパーリングと言われる角と角でのぶつかり合い。そのぶつかりが激しい時にはその音は山の壁に反射して、遠くにいるムースをも奮い立たせる。繁殖シーズンに雄は何度もこの行動を繰り返して、他より少しでも優位に立とうと努力する。




Tundra Moose

2010年10月20日水曜日

写真と絵画は何が違うか - part 2 -

レトリック(修辞)に関しての違いから自分の追求する写真へ



そもそも、絵画というのは画家が見た、あるいは認識した物を線や色彩によって描き出すことであって、その画家本人の思想を、高度な視覚表現の技術をもちいてキャンバスに含めることができる。 つまり100%に限りなく近い程度、その画家が造る(修辞する)ことができるものである。これは絵画の本質である。とくに16、7世紀の西洋絵画はこれなしでは絵画でなかった時代もあるようだ。逆に写真はもともと存在する「もの」を光と撮影技術を使ってフィルムに写し出す。したがって、写真においてレトリック(修辞)を含ませる場合それは造られた写真ということになる。(注:ここでのレトリックとは、政治的な思想などを言語化されていない絵柄として巧妙に織り込んでいくその手法のことである。したがって、美学でいうレトリックとは区別される必要がある。)これは、様々な意見があるとは思うが、僕の考えでは写真の本質ではない。
写真はありのままを写し出すアクチュアリティが本質なので、「撮る」という行為は本質でも、仕組まれた物を写し、表現までもっていくことは本質から外れる。このようにイデオロギーを含んだ写真は修辞学からは考えられるが、純粋な美学からは考えるべきではない。
したがってレトリックは絵画において公正な創造基準として見ることができても、写真に於いてはそうではないと考えられる。

いずれにしても写真に自分の意思を含めてはいけないと考えている訳ではなく、僕の考えでは第一に写真を「きれいに撮る」ということが基本的なことであって、第二に構図、色の配置、視線の誘導の技術、第三に意思である。
自然写真における写真作品を創作する上で絵画から学ぶべき明確なところは、上記三点を絵画について考えた場合、この第二のところのみである。また、レトリックというフィルターを除去した絵画、修辞学ではなく美学で考えることのできる絵画を選別していかなければ、絵画から写真を学ぶことは危険である。なぜなら、その構図が、色の配置が、視線の誘導が、作者の意図するイデオロギーのために用いられたとするなら、それは僕が学ぶべき手法ではないからである。

自分の求める写真とは、時にイデオロギーを含ませることは自分の表現を一般的にわかりやすくするために必要なのかもしれないけれど、そうではなくて、動物あるいはもっと大きい範疇での「自然」の普遍性をディスカバーしていく写真でありたい。 そういった意味では自分の求める写真は芸術ではないのかもしれないが、このことは今後作品を仕上げていく上で意識し続けなければいけない自分への制約である。

2010年10月1日金曜日

Caribou

9月27日、野生動物を保護している施設(AWCC)を訪ねた。

Caribou

この時期は繁殖期に近づいてるため、雄たちは興奮している。



体が多きいことと、角が大きいことが雌獲得の条件になる。体が大きくても角が短いものは力比べで勝てない。