今まで撮りためた写真でポートフォリオを作成した。動物のみのカテゴリーで20枚ほどのアルバムだ。
そのアルバムをいろんな人に見てもらって、面白い考察を得ることができた。
まず、ぼくのポートフォリオを見たとき、僕のブログをたまに見てくれている人と、僕のブログ自体を知らない人の反応が全く逆だということ。これは面白い結果だと感じた。ブログを見てくれている人は、そのプリントになんだか不満げな、納得いかない意見や表情をする。ブログを知らない人の反応は写真を見て驚いたり、どう撮ったかなど積極的に聞いてくれる。この違いを冷静に考えてみると、ブログを見てくれている人がただ単に自分の写真のほとんどを一度見たことがあるから消極的な反応だった、という理由だけではないようだ。
原因を探ってみると、2つの可能性が考えられた。
一つは透過光と反射光の違いからくる見え方の違い。パソコンのモニター上で見る光はスクリーンを通過して目に届く透過光であるのに対し、反射光は光が紙面に反射してその光が目に届いている。この違いは一般的に透過光のほうが反射光に対し、色空間がひろく、色彩が鮮やかに感じられるとされている。
もう一つは、「全体は部分の総和にあらず」という考え。全体としてのポートフォリオはポートフォリオとして考えなくてはならない。いいと思う写真をファイルするだけでは不十分だった。
ブログに写真を載せるときは一つの写真に対して説明を加え、その写真について、なにかしら物語が付いている。それはそこで自分なりに完結させている。しかし、ポートフォリオはただ単純に写真をファイルしていただけで、コンテクストもなく、実は並べ方などほとんど考慮していなかったという欠点があった。フォトグラファーの写真集などを見ればすぐに気づくことだが、写真の前後にどういうものが並んでいるかによっても感じは大きく変わってくる。この並びに関して、大差はない、などと考えるようでは、プレゼンテーションをする資格はない。
もちろん、全体を構成する部分のクオリティーが低ければ写真の場合どうがんばっても、そう良いものは生まれないだろう。また、絶妙なコンビネーションを作る感覚も持ち合わせていなければいい表現はできないのも確かだ。
2009年5月19日火曜日
2009年5月8日金曜日
写真上達過程回想五年
何か勘違いしているのかもしれない。こういった疑問は時折自分に問うようにしている。
大学三年のころ、写真を始めてすぐにフィルムカメラを壊してしまってから、僕は一眼レフデジタルカメラの Canon EOS Kiss という機種に買い替え、使用していた。この機種は、一眼レフデジタルを一般の人にも普及させるために発売された初心者用のものだった。
3年ほど経ったある日の、自分自身で発言したある言葉を正確に覚えている。前に勤めていた会社で昼食をとりながら写真について話をしていたときのこと。「僕の使っている Kiss(カメラ) はやっぱり限界を感じますね。遅いです。」と言った。確かに動体撮影をする上では、レンズだけではなく、カメラ本体の性能も重要になってくるのだが、今でこそそれを十分感じるようになってきたものの、当時の僕はほんとうの限界を知らなかった。たぶん、いい写真が撮れないことに言い訳をしていただけだった。体験からの発言ではなく、ただの知識からの発言であった。本当にその機種で本気で撮ろうとしていなかったに違いない。そしてそれから2年後の去年の夏、写真のことを深くも知らずに、プロが使用する機種に手を出した。写真は、確かに良くなりつつあった。
写真は今でこそわかるが、経験により上達させていくことができる。そしてそれは、カメラというメカにかかる比重よりも、自分の精神、考えの深さや洞察などのほうがはるかに大部分を占める。そう考えると、いまさら後悔しても仕方の無いことだが、一つの重要な実験を逃しているといえるだろう。僕の写真は、2年前に比べて良くなったことは間違いない。しかしそれは、上級者用カメラに早い段階で買い替えてしまったことによって、純粋な自分の写真の上達なのか、カメラの性能による自分の写真の上達なのかを曖昧にしてしまった。これをもし、kiss でずっととり続けていたらどうだったろう。間違いなく、純粋な自分の上達過程を明確に伺うことができたはずだ。どうせ今でもアマチュアの写真家である。今まで撮ってきた写真などすべて実験にすぎない。どうせなら初級者用のカメラで撮り続けるべきだったのかもしれない。
大学三年のころ、写真を始めてすぐにフィルムカメラを壊してしまってから、僕は一眼レフデジタルカメラの Canon EOS Kiss という機種に買い替え、使用していた。この機種は、一眼レフデジタルを一般の人にも普及させるために発売された初心者用のものだった。
3年ほど経ったある日の、自分自身で発言したある言葉を正確に覚えている。前に勤めていた会社で昼食をとりながら写真について話をしていたときのこと。「僕の使っている Kiss(カメラ) はやっぱり限界を感じますね。遅いです。」と言った。確かに動体撮影をする上では、レンズだけではなく、カメラ本体の性能も重要になってくるのだが、今でこそそれを十分感じるようになってきたものの、当時の僕はほんとうの限界を知らなかった。たぶん、いい写真が撮れないことに言い訳をしていただけだった。体験からの発言ではなく、ただの知識からの発言であった。本当にその機種で本気で撮ろうとしていなかったに違いない。そしてそれから2年後の去年の夏、写真のことを深くも知らずに、プロが使用する機種に手を出した。写真は、確かに良くなりつつあった。
写真は今でこそわかるが、経験により上達させていくことができる。そしてそれは、カメラというメカにかかる比重よりも、自分の精神、考えの深さや洞察などのほうがはるかに大部分を占める。そう考えると、いまさら後悔しても仕方の無いことだが、一つの重要な実験を逃しているといえるだろう。僕の写真は、2年前に比べて良くなったことは間違いない。しかしそれは、上級者用カメラに早い段階で買い替えてしまったことによって、純粋な自分の写真の上達なのか、カメラの性能による自分の写真の上達なのかを曖昧にしてしまった。これをもし、kiss でずっととり続けていたらどうだったろう。間違いなく、純粋な自分の上達過程を明確に伺うことができたはずだ。どうせ今でもアマチュアの写真家である。今まで撮ってきた写真などすべて実験にすぎない。どうせなら初級者用のカメラで撮り続けるべきだったのかもしれない。
かといって、いまからそれをやれるほど僕に忍耐はない。1回や2回の撮影行でこういった実験の結果が出るわけは無く、そのため時間もない。今年夏の撮影行はひとつの勝負になるからだ。マクニールリバーでのクマの撮影にその実験をしてみようとはどうしても思えないのだ。初のオオカミアプローチに Kiss なんかで臨みたくない。そこでは自分の最高の機材と状態で臨みたい。そういった意味では技術発展した世の中のように、個人の視点からもそれは後戻りができないのかもしれない。その点で、ひとつの実験を、アマチュアの時にしかできない実験を逃していると言える。
こういうところで、自分の技術発達の苦労をお金で簡単に解決しているために、長い時間をかけて自身を精進させていったひと昔前の写真家のような、深みのある写真が自分に撮れることはないのかもしれないと考えてしまうこともある。ほんとうのところはわからないが、ただ、あるひとつの、おもしろみのある実験を逃したという事実だけは残る。
2009年5月2日土曜日
Chase the wolves -part 4-

来月6月半ばから、本格的にオオカミを追跡する時間を設けた。場所はデナリ(Denali)国立公園。上の地図でわかるように、場所はアラスカの真ん中に位置している。
オオカミとの遭遇の可能性を高めるために、事前の準備が欠かせない。撮影のための資料としては古いが、オオカミの群れ(以下、パック)の動態を知る上ですごく参考になるのが生物学者のまとめた文献である。オオカミ研究の権威デビッドメッチの資料によると、デナリ周辺には20年ほど前から15ほどのパックが確認されている。その中でも比較的定住傾向にある群れが2パック、 East Fork(EF)と Headquoters(HQ)と名付けられているパック。
EFパックはアドルフミューリーが世界で初めてオオカミ研究をしたときの対象となったパックだ。彼の研究は1940年、下の図でメッチの研究は1990年前後。少なくとも50年以上群れのテリトリーが固定している。

テリトリーの大きさはリーダーの強さやパック内の個体数によって変化があるそうだが、この図からすべての年のテリトリーが重なっている核のようなエリアを見ることができる。僕の考えでは撮影の可能性を高めるのはこのエリア。あるいは、詳細情報が得られれば、テリトリーのエッジの部分も可能性は高いと考えている。なぜなら、テリトリーのエッジはパック内のオスたちが縄張り確保のためマーキングとパトロールをする場所であり、頻繁に通るからである。
East Fork パックを選んだもう一つの理由は、先程述べた核となるエリアへ車でアプローチできるからである。そこで、デナリの地図とEFパックのテリトリーをフォトショップで重ねてみた。
まず、このエリアへ入ることになるだろう。
それからもう一つが HeadQuoters のパック。
バックカントリーで国立公園へ入るのが初めてなので、川がとても重要になるだろう。これに沿って歩きさえすれば、道に迷うことがないからだ。
しかし、なによりも最新のオオカミ動態の情報が必須である。これら二つの定住傾向にあるパックについての研究とウェブでの情報収集を並行して進めて、現地到着前にフェアバンクスのADF&Gへ再び行く必要がありそうだ。
2009年4月22日水曜日
Mosquito Lake

Moose Reflection in the Lake
期末試験のための写真を撮るためと、この時期の明け方の様子を見たいのとあって、朝4時半に起床して近場の湖に出かけた。湖と言っても大きさは50メートル四方くらい。この湖は大学図書館のすぐ隣にありながら、周囲が木々に囲まれて中まで入っていく道がないために、人が訪れることは稀なのだと思う。
到着して湖岸のきれいなグラデーションを収めようと準備をしていると、さっそく現れたのは昨日からアンカレッジに渡ってきているカモメたち。場所を競うようにして、カナダガンの10羽ほどの群れが到着。朝5時にしてかなり騒がしい。
鳥たちも写真に収めながらゆっくりあたりを眺めていると、対岸にムースもやってきた。オスだ。オスの角はそろそろ生えはじめるのだろうか。どれくらいの期間であの立派な角は完成するのだろうか。
(写真はフォトショップのリフレクション効果を使って編集。この時期、湖面はまだ薄く氷がはっている。)
2009年4月18日土曜日
Scratch Board
絵画の授業で、スクラッチボードの課題が出た。絵画の授業では、描く対象物をほとんど自分で決めることができるので、スティルライフの課題をのぞいて、すべて動物か植物を描くことにしている。

今回のスクラッチボードでは、ハクトウワシを写真で捉えた構図で、そのまま正確に写すことを試みた。下はもとの写真。描いていて意外と足が太いんだな、とか、くちばしの鼻孔の部分はカラスと同じような作りになってるんだな、とか気づくことがあり面白かった。
スクラッチボードではあるけれど、絵画の中で詳細を描き出す苦労をいままで味わったことがなかった。それを描くためには対象に対する深い洞察が必要で、じっくり観察しなくてはならない。写真の中でのワシの羽をそのままスクラッチしてもリアル感は出ない。そのため、ワシの羽がどのように生えていて、どっち向きなのかなどを調べ、考えながら削っていく必要がある。
さらにボケの部分の描写は一番難しい。2Dのなかに3D感を出すためにボケ味の箇所を作ることは、上のような構図の場合は必要で、ボケているのでテキトーに、と安易に削るとなかなかその遠近感が出ない。
フォトグラフィックリアリズムを短時間で求めることが難しいのは当たり前なのかもしれない、と削りながら考えたりした。このワシは、少なくとも5年かかってこの本当のワシとして生きている。5年の歳月を経て創造されたものをたかが4、5時間の授業で同じに表すことなど不可能なのかもしれない。
2009年4月11日土曜日
Landscape: Anchorage coast area

雲によって地上で光が拡散された絵は何か雰囲気があって好きだ。
今回デジタルクラスの最後の宿題として、ランドスケープの写真課題が出された。教授はランドスケープと言っても、自然の風景写真でなくてもいいと言っていたが、自分の中で風景写真と決めた。構想の段階で出遅れ、課題の話があがった2週間後にようやく一回目の撮影行。
場所は年始に一度言ったことのあるアンカレッジの南、海岸沿いの沼地。
木漏れ日ならぬ雲漏れ日の写真は前から奇麗だと思っていたので、くもり時々晴れの中途半端な天気を狙った。結構待ったが、思ったよりうまく光が差し込んでくれず、提出用まではもっていけなかった。
撮影の時間はやはり日の出あるいは日没のどちらかでないといいなと思う写真がなかなか撮れない。この写真は夜の8時半。今の時期、アンカレッジの日が完全に没するのは9時半くらいだろうか。あまり日が長いと、日没後のバスの時間がなくなるので困る。
2009年4月5日日曜日
Photoshop Retouch & True Photography
どれくらいだろうか、授業とその宿題で50時間くらいは費やしただろうか。フォトショップの基本操作はだいぶ身に付いてきた。撮影したものはなるべくすぐに調整するよう心がけている。下の写真は大学内で行われたファッションショーでのもの。悪条件の中での撮影でとてもい練習になった。
これはとりっぱなしの写真。撮影状況は暗く、ISO3200まで上げなければならなかった。そんな状況下で手持ちの400mmではボケのないものは数枚しか撮れない。やはり、後でどうにでもなると思って撮影していてはいい仕上がりはできない。3年前の冬、写真家の内山さんと話をしていたときのことを思い出した。現場で決めるという大切さについて話してくれたことを。
このさき、機械の技術でどうにでも写真を操ることができるようになるだろう。実際、大手メーカー2社はD-SLRでの動画撮影に踏み込んだ。これで撮影する画質が時を経るに従い向上していくことは必然で、そうなれば録画中ずーっと高速連写撮影をしているのと同じである。あとの編集の段階でいいと思う画像で静止させ、高画質でそれをピックアップしてしまえば終わり。屋外でシャッターを切る人がいなくなるのではないか。それは言い過ぎにしても、カメラの意義が近々大きく変化する予感がする。
しかし、現場、いわゆる生の映像にかなうものはないと思う。どんなに技術が発達して、高画質で簡単に画像をピックアップできるようになったとしても、そんなものに負けるような写真は撮りたくない。技術では絶対に超えられないような芸術の壁は現場でしか見つけられないと考えている。
登録:
コメント (Atom)








