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2014年6月19日木曜日

動物の、からだの色

興味深い記事を読んだ。
2009年と、5年も前の、見過ごした記事だ。


「複数の種の生息域が重なる場所では、生息域が重ならない場所とくらべ、同種のオスと違う種のオスを見分ける能力が高まります」とGrether教授。研 究者たちは1種のイトトンボしか生息しない地域で、その種のオスの羽をほかの種のイトトンボに似せて着色し、この説を検証しました。「イトトンボのオス は、別のオスの個体が自分と同じ種どうかを色によって識別し、この識別は複数の種が共存する地域で行われ、1種のみが生息する地域ではほとんど行われない ことがわかりました。これは、色による種の識別能力がほかの種と闘うことによる淘汰の結果として発生したことを強く示唆しています」

http://www.sciencedaily.com/releases/2009/11/091102112104.htm




アラスカのエトピリカは、そういうことなのだろうか。。。

たしかに夏の間だけ、何百万といる海鳥の生息域の中で、求愛し、子育てをする。その時期だけ、とてもビビッドなくちばしとなり、冬は地味な色に戻る。


アラスカの動物は、基本的に、みんな地味な衣装を着ている。

上の記事からすれば、これは、土地があまりにも広いため、生息域が重ならないからなのだろう。

そうみていくと、ハクトウワシは、繁殖できるほどに成長したときに、頭と尾が白くなるのである。これは、生息域が重なる、体すべてが茶色いイヌワシとの差別化なのか。。。

これから、この視点も取り入れて、動物たちをみてみようとおもった。





2013年6月14日金曜日

ものづくりの姿勢


緑に覆われる朝日とオジロジカ


 ある本を読んで、自分の辿っている方向性を考えさせられた。去年のことである。その本の著者は、ものを作る人間は、二つのどちらかの道があると言っており、

ひとつは、自分の思いを主体にして、つくりたいものをつくる生き方。自分の価値観や信念にしたがって、自分自身が満足いくものを追い求める。これは採算や生産は度外視することになる。

もうひとつは、自分を社会の一員として位置づけてものづくりをしていくという在り方。需要と供給を意識し、今自分は、何を求められているかを見据えた中に身を置く。これは何をするにも商業ベースで考えていくことになる。

どちらも、いいものをつくりたいという気持ちは同じで、要は、何に価値と意義を感じて生きていくかの違いだと言っている。このことは、僕が出会う写真家皆が意識していて、僕も知っていた。

果たして僕の考えはそのどちらかと言うと、前者であった。しかし残念なことに、自然写真というものを続けていく限り、また、自分の満足する物を追求していく限り、食べていけなければその活動は停滞することを、言葉ではなく実体験として経験している。だから、本当を言うと、この前者と後者の間で、合理的な解決策が見当たらず、3年ほど揺れ動いていたと言っていいかもしれない。(このような自分の中の、悟りに近い、深い決断には、合理的という言葉は無意味かもしれない・・・)

いまは考えが決まっており、バランスがとれつつある。食べていくために、全く違うことも並行して続けていくということは、自分の性分ではないので、なんとか自分の創作活動にもつながるお金の稼ぎ方をしている。

かんたんに分けると、上で言う前者としての撮影活動と、後者に当てる北方の自然を主体とした観光ガイド・撮影ツアー・写真の販売ということになる。

写真家の中には、完全に二者を分け、全く写真と関係ないことをして稼ぎ、時間と金をみつけては撮影に出かける者もいる。また、撮影にほとんどお金をかけないでも、身近に撮影対象を見つけ、立派な仕事をしている写真家もいる。

すべての道を、自分ひとつの体で歩いていくことはできない。自分のスタンスを固める必要があるのだ。僕は昨年そのことにようやく気がつき、あらためて活動を開始したという次第である。







2013年5月28日火曜日

違う空間の認識


 家の前の公園近くを散歩していたときのこと。ふと、赤い土管の外側にとまる2匹のハエが目についた。その2匹は、僕の2メートルくらい離れたところにいる。2匹は互いに見合い、静止している。注意は互いに向かっているようだ。

しかし、彼らの眼は複眼で、僕のいる方向は、彼らの視界に必ず入っている。ただ、僕の存在が、「見えている」かどうかは僕にはわからない。そのとき、片方のハエが飛び立った。20センチのところにいたもう一方も続けて飛び立った。どうやら、先に飛び立った方を追いかけているようである。これは雄と雌に違いなかった。空中で(どちらが雄かは見分けがつかないが)2匹は何度か接触していた。そして、またほぼ同じ土管の外側に着地した。

僕はこの一連の動作を見ていて、非常に興味を魅かれた。ためしに、僕は2匹の50センチまで近づいた。案の定、2匹は僕の存在から遠ざかり、少し離れた位置に再び着地した。着地すると、その2匹はまた互いに20センチほどの距離を保っていた。

このとき、僕は彼らと全く別の世界に生きているということを確認できた。僕の存在は彼らにとって、近づきすぎるとつぶされてしまう大きな物体にすぎない。ヒトも犬も猫も、彼らを襲うことができる小鳥や昆虫以外、単なる「避けた方がよい物体」でしかない。

ハエは自分たちの雌雄を見分けるという必要な感覚は備えているが、そのほかは、ほとんど意味をなさない空間の認識をしているようだ。

それにしても、人間の僕から見ると不思議なことは、オスはメスを何らかの刺激で確実に見分けるというその判断の世界の違い。ヒトは視覚世界が大きいから、ほとんど目で見分けている。それで別の感覚から雌雄を見分けるという認識をほとんど理解できない。

もうひとつ不思議なことは、互いに人間には追いつくことのできない瞬発力で反応しあう、この時間の世界の違いである。

観察していると、ハエはあきらかに僕らとは違う世界で生きていると考えざるを得ない。

2013年3月23日土曜日

自然の見方

カメラを通して自然をみるというのはどういうことだろう。

あらためて基本的な部分を考えなおしてみた。

 

ふつうに自然の中を歩いているときに見る自然は、自分がその自然を知ろう、その自然の一部になってみて、木々や動物たちの世界を見るという、自分の中へ自然を取り込む行動、インプットしていくという考え方といえる。

それに対して、カメラを通して自然を見るということは、どうしても「表現」ということを意識しなければならない。360度ひろがる現実の自然の中を、四角く切り取らなければならない。これには自分の自然に対する考え方をアウトプットしていく必要がある。自分の楽しみのための記録にしたって、一部を切り取るときは、深く考えれば取り集めたものが「自分の観る自然」といえるだろう。

自分の考える自然とはどういうものなのか。一枚で表すのなら、やはり「驚き」の感覚を捉えること。

数枚で表す場合は、並べてみて自分の自然に対する考え方が反映されるよう表現すること。これが基本になってくるだろう。

自然の中を歩くときに、カメラをもって記録しながら歩く場合は、このインプットとアウトプットを意識して行動する必要がある。

どうしても自然写真は、時代と密接につながっている必要があると思うし、いま生きる僕らの時代に、どのように自然と向き合っていくか。自分の自然の見方というのをアピールしていくべきだ。








2012年10月28日日曜日

Single photography with a theme

Ephemeral autumn wind

写真は、「短い秋を通り過ぎて、長い冬へ向かう季節の移ろい」を一枚の写真で表現できないだろうかと考えて撮影したもの。

2012年5月3日木曜日

五月

5月に入って、五月らしい写真を、いままで撮った中から選んでみた。

動物か風景か、こだわらずに色と雰囲気で選んだら、これになった。



テーマを自分の中で考えるとき、かならず今までの体験が基になっていると思う。

アラスカで生まれ育った人は、アラスカの5月だから、この写真は選ばないだろう。

もしかしたら、偶然同じかもしれない。でも他の月は違うはずだ。

感性が違うから、ぜんぶ同じにはならない。


日本で育った人が、アラスカの写真をまとめるとき、これは隠す必要はないだろう。

でも、見つけるのが難しく、いまのままだと無意識に隠れてしまう。

ここを掘り下げていく必要がある、ということ。


2012年1月14日土曜日

時間

今年で30になることを考えた。

単純計算で仮に、60歳までの自分が自由にもつ時間を計算するとこうなる。

のこりの30年間=睡眠時間(10年)+食事など生活で必要な行動時間(5年)+人のために費やす時間(10年)+自分の自由時間(5年)

なにか成し遂げたいことがある場合、残された時間を計算するとき、それが自由である場合と、そうでない場合とで考え方は変わる。自由である場合は、自分のもっている時間が長くなる。

もし、この「自分の時間」の5年間(43,800時間)に、一日をむだに過ごすようなことがあれば、次々に成すべきことから遠ざかる。

また、この自由時間にも、成すためにしなければいけないこと、たとえばお金を稼ぐことがあって、これがすべて自分の自由時間に直結するわけではない。

概算すると約25,000時間が、自分の本当の自由に当てられる時間になる。

これが一生であることを思うと、どれほど短いか。


この考えに非難はあるだろうけれど、何かをしようと人生を自分で動かしている人にだけはわかる。

しかし、慌てたところで何かが変わるわけではなく、狼狽はこの貴重な時間の浪費につながる。とにかく点で過ぎゆく現在を、自分の意志をめぐらせて行動するのみ、というのが新年の抱負になる。

2011年5月11日水曜日

考えさせられること

あるウェブサイトの記事を読んでいて考えさせられた。この先、撮影を一生続けていくことに間違いはないだろうけれど、より制限が課せられてくるのも間違いなさそうだ。これまでに、似たような局面にあたることはあったが、もうすこし大局で見て事前にこれに対して準備しておく必要がありそうだ。
  以下、ある写真家が書いた、作家として活動を続けていく次世代にむけられた記事。

■これまでフォトグラファーとして何か苦しい事はありましたか?

「話はずれるのかもしれませんが、写真学校の講師として安定した収入があった事は、作家活動をする上でプラスになりました。作品を創作するうえで必 要最低限の条件は、続けるという事です。30代で伊奈信男賞を受賞しましたが、多くの場合その後が続かないという話をよく聞きます。最初はエネルギーがあ り、勢いで達成できてしまうからです。しかし、現在の写真業界は、賞を取ったからといって何かまわりの環境が変わるという事は殆どありません。それが、初 めて賞を受賞したフォトグラファーの落胆も誘います。また、最初の創作のために資金を使い果たすという事も、創作の活動が続かない要因だと思います。その 部分で安定した収入ができた事はフォトグラファーとして活動していく上で、大きな要素です。苦しい事はありましたが、他のフォトグラファーがいちばん苦し む部分をうまく対応できたのではないかと思います。 最初は写真の仕事が「3」、その他の仕事(バイトなど)が「7」という状況でした。フリーになり3年目位から、徐々に写真の仕事が増え、「森の人 PIGMY」やメキシコのゲリラ、サパティスタを撮影していた頃は、写真学校の講師の収入とメディアの仕事で収入の半分ずつといった感じになりました。」

2010年12月16日木曜日

謙虚さ VS 達成感


岩瀬大輔という人の本をアマゾンで読んでいたときに、近頃写真について倦怠感のようなうやむやがたまっている原因がこれでわかった。
それはここ最近達成感を何も感じていないということだった。

いままであまりにもレベルの高いプロ写真家の作品を手本にして来たせいで、気付かぬうちに自分の作品と彼らのものを比較するようになっていた。経験もセンスも基本的な撮影技術レベルも違うプロの写真家と対等に比較などするものではない。自分のレベルを計る時にはいいだろうが、慢性的にそんなことをしていると、自分の写真に自信をなくすだけである。達成感も何もない。要するに、最近自分は浮き足立っていた。3段抜かしでプロの作品に並ぼうなど段を踏み外すだけだ。過信していたのかもしれない。正直、焦燥感もあった。そのせいで撮影後の画像処理も今見ると去年に比べて過度に行っているものが多い。自然写真が人工写真になっていく過程である。ごまかすつもりはなくても写真にはそれが現れるということを知った。

そんな焦燥感を落ち着かせてくれるのは自分にとっては本であった。普段写真以外の本では芸術に関するものや古典を読むことが多いのだが、久しぶりになにげなく自己啓発本を手にした。二十歳の頃これでもかという程読みあさったジャンルである。ここに自分を謙虚にする原点があった。謙虚さは自分を正しく評価する。本来の自分の性格に謙虚さが備わっていないことは自覚していたのだが、いままで自己啓発本によって自分の謙虚さを維持していたのだということは知らなかった。ここで学んだ重要なことは、謙虚さを取り戻すことで、地に足をつけた評価を自分に下し、小さいことにも達成感を覚える、ということ。達成感は自分の職業が生き物であるとするならばその餌に等しい。枯れれば飢えるし、摂りすぎれば肥える。そしてこの感覚を得るには謙虚である必要がある。

ときおり自己啓発本を読むことで自分へ謙虚さを備え付け、食べ物が自分の体の一部になると同じように、徐々にこれを自分のものにできれはいいと思っている。 つい先週ガイドをしたときのお客さんが言っていた。「人間万事塞翁が馬」とは中国の故事で、幸不幸は予想のできないことのたとえである。日々起こる出来事に一喜一憂することなく、幸福がいつ禍いになるかも、禍いがいつ幸福に転じるかもわからないのだから、甲の日も乙の日も落ち着いていられよ。ということである。謙虚さの根源はこのたとえにあるように感じた。
これは若者が思考し味得することではないけれど、謙虚さを自分のものにする上でときおりこのように反省してみることには価値がある。

2010年10月20日水曜日

写真と絵画は何が違うか - part 2 -

レトリック(修辞)に関しての違いから自分の追求する写真へ



そもそも、絵画というのは画家が見た、あるいは認識した物を線や色彩によって描き出すことであって、その画家本人の思想を、高度な視覚表現の技術をもちいてキャンバスに含めることができる。 つまり100%に限りなく近い程度、その画家が造る(修辞する)ことができるものである。これは絵画の本質である。とくに16、7世紀の西洋絵画はこれなしでは絵画でなかった時代もあるようだ。逆に写真はもともと存在する「もの」を光と撮影技術を使ってフィルムに写し出す。したがって、写真においてレトリック(修辞)を含ませる場合それは造られた写真ということになる。(注:ここでのレトリックとは、政治的な思想などを言語化されていない絵柄として巧妙に織り込んでいくその手法のことである。したがって、美学でいうレトリックとは区別される必要がある。)これは、様々な意見があるとは思うが、僕の考えでは写真の本質ではない。
写真はありのままを写し出すアクチュアリティが本質なので、「撮る」という行為は本質でも、仕組まれた物を写し、表現までもっていくことは本質から外れる。このようにイデオロギーを含んだ写真は修辞学からは考えられるが、純粋な美学からは考えるべきではない。
したがってレトリックは絵画において公正な創造基準として見ることができても、写真に於いてはそうではないと考えられる。

いずれにしても写真に自分の意思を含めてはいけないと考えている訳ではなく、僕の考えでは第一に写真を「きれいに撮る」ということが基本的なことであって、第二に構図、色の配置、視線の誘導の技術、第三に意思である。
自然写真における写真作品を創作する上で絵画から学ぶべき明確なところは、上記三点を絵画について考えた場合、この第二のところのみである。また、レトリックというフィルターを除去した絵画、修辞学ではなく美学で考えることのできる絵画を選別していかなければ、絵画から写真を学ぶことは危険である。なぜなら、その構図が、色の配置が、視線の誘導が、作者の意図するイデオロギーのために用いられたとするなら、それは僕が学ぶべき手法ではないからである。

自分の求める写真とは、時にイデオロギーを含ませることは自分の表現を一般的にわかりやすくするために必要なのかもしれないけれど、そうではなくて、動物あるいはもっと大きい範疇での「自然」の普遍性をディスカバーしていく写真でありたい。 そういった意味では自分の求める写真は芸術ではないのかもしれないが、このことは今後作品を仕上げていく上で意識し続けなければいけない自分への制約である。

2010年7月19日月曜日

like a question without an answer


デナリ国立公園から帰ってきて考えていたことだけれど、いまだに答えが出ない。

 大昔、まだ動物がいなかった植物のみの時代、有機物はすべて同じ方向の流れだった。
しかしあるときから全く逆の流れが現れて、その個体の尽きたとき地に帰るような仕組みができた。

植物は時間の流れに従って還元していくながれ。逆に動物は酸化していく流れ。どこからこの酸化していく流れが生まれたのか。それにもまして、なぜ自然は逆の流れを必要としたのか。
自然は無駄なことをしない。
これもひとつのある一定量を超えると質が変わるという自然の理のひとつなのだろうか。

 こんなことに答えなどないのかもしれないけど、不思議でついついぼーっとその思いに耽ってしまう。



2010年3月2日火曜日

平和


 突然二枚の挿絵を雑誌の見開きで見せられて、瞬時に、「ヒトもべつの生態系の中にいるのではないか」という考えが浮かんだ。

左の挿絵は1929年〜1995年までのイエローストーン国立公園。下の絵がその最近の様子だ。
このイエローストーン国立公園は、人間の活動に比例して生態環境が悪化しつつある他の多くの国立公園とは違い、生態系のバランスを回復した場所として最も有名である。そのポイントは人為的にオオカミを再導入したこと。導入後、増えすぎたシカの数が安定していき、それに伴い、これまでシカに食べ尽くされていた植物が繁殖できるようになった。こうして食物連鎖である生態サイクルがうまく循環しだしたのである。
この、「全体としてうまく回りだした」ことが最も重要なのだが、シカにとっては迷惑だったはずである。いままで天敵がいなく悠々自適に、食べたいものを食べたいときに好きなだけ得ることができた。そんなところへ急に天敵であるオオカミが現れたため、鈍った感覚は容易にオオカミの攻撃を受け入れた。
警戒し、死にものぐるいで逃げなければ食い殺される状態。生態系でいえばこれが安定であり、正常である。結果として、シカたちの感性は研ぎすまされ、天敵に殺されない方法を何世代もかけて見いだそうとする。これがひとつの進化。


民主主義という言葉をこのブログで使うのは抵抗があるけれど、人間の世界を考えたとき、いままで最高の政治形態だとされてきたその形態の弱点が、いま間違いなく露呈されている。
たとえば、文化の水準で一つの国を見た時、大衆が力を持てば、その文化は自動的に大衆の利害や趣味によって作られる。そして、大衆は自らの好みにあった音楽や芸術や映画や読み物を求めるだろうし、多くの人がそれを喜んで供給する。そうなれば、そうしたものの水準がたちまち二流三流に落ちてしまう危険性がある。(引用)
落ちていく流れは力を必要としないのだから、自分たちの欲に従えばいいだけである。要するに、文化にせよ衣食住の生活にせよ、大衆は好きなものを簡単に手に入れることができるようになった場合、生きる力を失う。

この、現在ヒトが直面している大きな問題は、今後の道を自覚するために生態系や個々の動物から学べることが多すぎるほどある。確かに動物は何も考えず、欲で生きる部分がほとんどだが、その代償として寝ても覚めても死が隣りに居座る。オオカミは繁殖のための順位争いや縄張り争いで互いを殺し合う。また、広大な縄張りが必要なこともあり、数は増えすぎない。ヒトは生物学的には生態系サイクルから外されているとはいえ、その摂理は人間社会も同じである。戦争をしてはいけないのなら、そのための代償が必要だし、もし欲に従うのなら、同様にそのための代償が必要である。

「個々が必死にならねば生きていけない状態」これには負荷が大きくかかり、辛いが、この状態でなければ存続できないのだということを自覚する方法を見いださなければならない。




2009年9月30日水曜日

写真は絵画と何が違うか -part 1-


 ※撮影の工夫次第で絵画のような写真が撮れる。三脚を用いて、シャッター開口中、やや斜め方向に直線的にカメラをずらすことでブラシストロークのように表現したもの。しかし、即席でできるものの、本当の絵筆に比べれば当然表現方法に制限が出てくる。この写真は僕が撮ったものだが、まねをしてみただけである。このようなアブストラクト写真を撮るカメラマンの狙いは何だろうか。




先日アンカレッジ市内の写真展を見に行き、確かめさせられることがあった。それは自分が写真をやるのはなぜかということ。

展示の中にエディーソロウェー(クリックでページにジャンプ)という写真家の写真が展示されていた。この写真家の講演に夏参加したばかりだったのだが、写真展で彼の写真をじっくり見ていて、夏の講演のときに一つ質問をしなかったことに後悔した。「絵画ではなく、写真で抽象画のような画像を撮るのはなぜですか」
それはカメラで絵筆に対抗しようという運動なのか、それとも自然美をスピーディーに見つけられて、さらに仕事が早く進められて楽しいからか、あるいは単にきれいだからとるのだろうか。
リアリズムという範疇において、自分の活動も、なぜ絵画ではなく、写真なのかという質問がされうる。これには僕は、世の中の動きや、動物の保護活動というキーワードでもって答えることができる。しかし、彼のような抽象画を写真で撮る人は、自由な描写ができる絵筆やブラシではなく、なぜ制限のかかるカメラでそれをやろうとするのか。





2009年8月11日火曜日

Eternal recurrence




いつの頃からだったか定かではないけれど、小さい頃、過去と未来についての想像を膨らましたときに、おぼろげながらひとつの考えが浮かび、それを26歳の今でも引き続いて所持していた。その考えとは、人でも動物でも皆、生まれ変わったとしてもまた同じ自分で、全く同じ人生を歩むんじゃないかという何の根拠もない仮説のようなもの。幼かったので論理立てて明確に考えられた訳ではないけれど、たしかにそれを考えていた。そして人に話すようなことでもなくしまわれていた。
そして偶然、先日それが永劫回帰という言葉で先人が論じているのを知って、非常に驚いた。読んでいると当時思い起こした概念と全く同じ。どこかで見たか、誰かから聞いたことをそのまま覚えているのではないかと、自分の過去の記憶を疑った。しかし、ニーチェの本など過去に読んだ記憶はなければ、こんな話しを真剣に子供に話す人もいないだろう。
小さい頃の何でもない考えが、自分の世界観を作っているのだと思うことがたまにある。何の根拠もないところから自然に生まれてくるからこそ、信じてみたくなるのかもしれない。


2009年7月1日水曜日

Think about Crop



デナリ国立公園で本格的に撮影に入る前に、フェアバンクスに立ち寄った。昨年10月に来たときに比べ街並は青青として日差しも強く、違う町にきたような感覚だった。



アラスカ大学フェアバンクス校の図書館に立ち寄り、バックカントリーのルート計画と、写真について準備している時、ふとトリミングのことが気になった。トリミングとはその意味合いを二大別できる。写真をプリントサイズに合わせるための写真の切り取りと、撮った写真の意図をより強調するための切り取りの二つ。

前者はほとんどの人がプリントの段階で行うことになる。大学の授業で、教授は後者のほうはなるべく避けるべきだと話していた。なぜならファインダーをのぞいているときに考える構図がおろそかになりがちだからだと。他にも、写真に詳しい方の意見では、撮影後のトリミングを想定していると写真のセレクトの段階で非常に時間がかかる、という考えも聞いた。

はじめは僕もこれらに同意できていた。しかし、いま僕はこれに関して疑問を抱いている。たしかに撮影後のトリミングを想定していてはその場での感覚がいい加減になってしまう可能性はあるし、トリミングをすればするほど、後のプリントサイズに制限が出てくるということもある。だが、本当にいいと思える瞬間をおさえることができたのが、対象物が小さかったなどという時、それでもトリミングをしない方がいいなどとは思わない。例えば下の写真、


これは僕の持っている最長の望遠レンズで撮ったもの。撮る前に撮影後のプリント構図まで想定できていた。しかし、ここは鳥の保護地区で、これより先に足を踏み入れることはできない。上の写真だと、あきらかに曖昧な写真になってしまう。

これをトリミングしたのが下の写真。


なにが、何をしようとしている瞬間なのかがはっきりわかる。日のあたり具合や親の翼の広げ方に少し不満はあるが、目的の構図を得ることができた。しかしこれはトリミングをしている。この写真のプリントは限界A4サイズがいいところだろう。それでも、このように表現できる方を選びたいと思う。ある程度のフォトグラファー意識が維持できれば、撮影後にどうにでもなるなどと思いながら撮影する写真家はまずいないだろう。

いまのところ、僕は撮影後のトリミングでよい写真表現ができるのであればこれを積極的に行っていく。









2009年5月19日火曜日

Editorship

今まで撮りためた写真でポートフォリオを作成した。動物のみのカテゴリーで20枚ほどのアルバムだ。
そのアルバムをいろんな人に見てもらって、面白い考察を得ることができた。

まず、ぼくのポートフォリオを見たとき、僕のブログをたまに見てくれている人と、僕のブログ自体を知らない人の反応が全く逆だということ。これは面白い結果だと感じた。ブログを見てくれている人は、そのプリントになんだか不満げな、納得いかない意見や表情をする。ブログを知らない人の反応は写真を見て驚いたり、どう撮ったかなど積極的に聞いてくれる。この違いを冷静に考えてみると、ブログを見てくれている人がただ単に自分の写真のほとんどを一度見たことがあるから消極的な反応だった、という理由だけではないようだ。

原因を探ってみると、2つの可能性が考えられた。
一つは透過光と反射光の違いからくる見え方の違い。パソコンのモニター上で見る光はスクリーンを通過して目に届く透過光であるのに対し、反射光は光が紙面に反射してその光が目に届いている。この違いは一般的に透過光のほうが反射光に対し、色空間がひろく、色彩が鮮やかに感じられるとされている。

もう一つは、「全体は部分の総和にあらず」という考え。全体としてのポートフォリオはポートフォリオとして考えなくてはならない。いいと思う写真をファイルするだけでは不十分だった。
ブログに写真を載せるときは一つの写真に対して説明を加え、その写真について、なにかしら物語が付いている。それはそこで自分なりに完結させている。しかし、ポートフォリオはただ単純に写真をファイルしていただけで、コンテクストもなく、実は並べ方などほとんど考慮していなかったという欠点があった。フォトグラファーの写真集などを見ればすぐに気づくことだが、写真の前後にどういうものが並んでいるかによっても感じは大きく変わってくる。この並びに関して、大差はない、などと考えるようでは、プレゼンテーションをする資格はない。
もちろん、全体を構成する部分のクオリティーが低ければ写真の場合どうがんばっても、そう良いものは生まれないだろう。また、絶妙なコンビネーションを作る感覚も持ち合わせていなければいい表現はできないのも確かだ。

2009年2月23日月曜日

Photoshop Edit

夜、山に写真を撮りにいった。
今回はデジタル写真クラスの宿題である夜景写真を撮るために出かけた。

カメラの機能を色々使うと、人の目では見えない画像を撮ることができるのは、カメラの利点の一つだと思う。長時間シャッターを開けっ放しにしておくと、肉眼では暗くて見えない星の光までも、デジタルセンサーが鮮明に捕らえたりする。下の写真は、アラスカの州旗にもある、「北斗七星」を撮ったもの。(注:左からの赤い光はアンカレッジの町の光が拡散されながら届いてきているもの。中間調のみ調整)



星座はその形を知らなければ見つけることができない。例えば、上の写真で北斗七星以外の星座かあるいはその一部を認識できるという人はほとんどいないと思う。僕もわからない。じゃあ、北斗七星を知らない人は、この写真を見た時に面白さは半減してしまうかなとも思った。
そんなことを考えながら、この写真を編集していた。実際、この写真については、ポイントが山の上の北斗七星なので、その七つの星がもう少し輝いていてほしかった。

そこで、フォトショップをつかって、それらを強調してみた。下の写真がそれである。



これは果たして本当の写真と言っていいのかどうか。このように編集した写真の扱いはどうするべきなのか、未だに自分で答えを見つけられていない。「注」で記しているように赤い光もいい雰囲気を出していると思うが、フォトショップを使っていじることができてしまう。本物らしく見せることができてしまう。具体的にいえば、1ピクセルづつ変更しながら、星を強調したり、青や緑や赤の光をすこしづつ加えることもできる。
ただ、「編集時、フォトショップ使用」だけ記せばいいという問題ではない気がする。





2008年12月31日水曜日

Bald Eagle in Homer -part 6-




Eagle Portrait



最終日、撮影を終え、スティーブさんに2月また会う約束をして、ホーマーを発った。今回の旅で学んだことがたくさんあった。

重要なもののひとつは現地の人とのつながりを持つこと。それは一緒に何かやってみることでわかることがある。これは写真を撮ることに直接関わりはないようだが、間接的には重要になってくる。たとえば今日は他にもカメラマンが4人来ていて、10時に僕を含めた5人はスタンバイをしていた。今日だけ、僕は広角レンズをはじめにセットしていたのだが、ほかの4人はもちろん望遠レンズ。実は昨日の時点で、スティーブさんからエサを変えることを聞いていた。ヒラメやサーモンからイワシに変わる。それはハクトウワシたちが僕らの1m手前までくることを意味する。もちろんその距離の被写体は500mmくらいのレンズでは収められない。この情報は、スティーブさんからしか得ることができないだろう。
もう一つはあらかじめ写真の出来上がりをイメージしておくということ。ぼくは今回5つのイメージを持って撮影に臨んだ。それらのイメージは、ストックフォトのサイトからたくさん想定できるものであり、どのように撮影するべきなのか前もって勉強することができる。あと自分なりに考えついた、馬鹿にできない練習方法が、 YouTube の動画をみながら、自分のイメージする構図で一時停止ボタン(シャッター)を押す、という練習方法。タイムラグがあるが、これがなかなかおもしろい方法だとわかった。特に飛翔中のワシは動きが速いので、タイミングは非常に重要になる。
まだまだ完璧なショットは撮れていないが、今回の旅はいい足がためとなった。


Mystery Hills

帰りのコンディションは行きとは雲泥の差。アンカレッジまで3時間半で着いてしまった。少々飛ばしすぎた。しかし晴れた日にアラスカの山々を縫うようにドライブするのは最高だ。



2008年11月7日金曜日

ありじごく


母親が日記を送ってくれた。僕が書いた、小学四年の頃のもので、中には理解不能の文章もたくさんあったが、その頃の僕の考えが記されていた。1992年6月、ちょうどこの月は、映画「Into The Wild」(2007)の主人公クリストファーが実際にフェアバンクスの大地で孤独で厳しい生活を送っていた月である。その遥か南西で、僕は平和にもありじごくについての日記を書いていた。日記、といっても詩のように短いが、ちょっと面白かったので書き写してみた。

ありじごく

きょう、ありじごくを、見つけました。
そこは、なんと、ぼくの、家の、ガレージの、下にありました。
そして、大っきいのと、小ーさいのと、5つぐらいできていました。
ありじごくのすは、ありがはいってしまうと、すべってでられなくなるようになっています。
でも、ありじごくの小ーさいのは、ありを、入れても、出てしまいます。大っきいのは、入れたら、ありじごくにすわれてしまいます。
すわれるというのは、血かなにかを、すっているとおもいます。
なぜかというと、いつもありを入れたら、はらのふくらんでいるところだけ、すなにうまって、50秒ぐらいで、ありじごくが、「ポンッ」と、ありを、すてます。そのありはもう死んでいます。
そのありはかわいそうだな、と思ったんだけど、ずっと見ているとたのしいです。
もっと大きくなって、ウスバカゲロウという虫になってほしいです。


ま、この文章が小学四年生としてどうなのかは不明だが、なかなかいい観察の仕方をしているなと感じた。今の自分からすれば、もっと深く突っ込んだ内容がほしかった。ともあれ、いちおう論理展開もしてるので良いということにしておこう。また、不思議なことに、この観察をしたことの記憶は、この日記を読むことではっきりと甦ってきた。ありじごくが住み着いたのにも訳があった。三島の実家のガレージはカーポートがあるために梅雨でも雨が注ぐことが無く、芝生の枯れた部分が夏に亜熱帯砂漠と同じ環境になる特殊な部分だ。こういった特殊な乾燥した砂地に住み着くありじごくが、木造建築し始める時代以前の日本にもいたのだろうか。森やちょっとした洞窟のようなところを見つけられるにしても、ウスバカゲロウにとってありじごくとして生活する幼虫期が梅雨と重なってしまっては住みにくいはずだ。

ところで、ありじごくを実際に見たことがある人はいまどれくらいいるんだろう。この昆虫は普通に生活していたら見ることはできない。成虫になって飛べるようになったウスバカゲロウだってそんなに見れるものじゃない。実家に帰った時にはまた見つけて観察してみたいと思う。

秀逸な研究を見つけたので興味のある方は→こちら 小学生でこれだけの研究ができるのか・・・。今の子供はすごいのかも。