2013年7月18日木曜日

撮影プロジェクト 第一回終了

主要な町、クレイグの港

昨日、一ヶ月間の撮影行を終了し、アンカレッジに戻った。
今回の撮影は、アラスカ州のウェールズ島という島の、自然を主体とした撮影に加え、人の営みにも注目した撮影を続けていた。

以前(2013年3月5日)の投稿に構想を記したように、今回のプロジェクトのいちばんの目的は、この島のオオカミの謎にせまることにあった。島での滞在は20日間。おそらく、ある程度予想していたとおり、5、6年は少なくともかかるプロジェクトになりそうだ。第一年目としては、オオカミの撮影には失敗したものの、かなりの情報と次回のための土台が固まった。

次からの投稿では、僕が過ごしたこの島で、毎日書いていた日記を取りあげていく。

2013年6月14日金曜日

ものづくりの姿勢


緑に覆われる朝日とオジロジカ


 ある本を読んで、自分の辿っている方向性を考えさせられた。去年のことである。その本の著者は、ものを作る人間は、二つのどちらかの道があると言っており、

ひとつは、自分の思いを主体にして、つくりたいものをつくる生き方。自分の価値観や信念にしたがって、自分自身が満足いくものを追い求める。これは採算や生産は度外視することになる。

もうひとつは、自分を社会の一員として位置づけてものづくりをしていくという在り方。需要と供給を意識し、今自分は、何を求められているかを見据えた中に身を置く。これは何をするにも商業ベースで考えていくことになる。

どちらも、いいものをつくりたいという気持ちは同じで、要は、何に価値と意義を感じて生きていくかの違いだと言っている。このことは、僕が出会う写真家皆が意識していて、僕も知っていた。

果たして僕の考えはそのどちらかと言うと、前者であった。しかし残念なことに、自然写真というものを続けていく限り、また、自分の満足する物を追求していく限り、食べていけなければその活動は停滞することを、言葉ではなく実体験として経験している。だから、本当を言うと、この前者と後者の間で、合理的な解決策が見当たらず、3年ほど揺れ動いていたと言っていいかもしれない。(このような自分の中の、悟りに近い、深い決断には、合理的という言葉は無意味かもしれない・・・)

いまは考えが決まっており、バランスがとれつつある。食べていくために、全く違うことも並行して続けていくということは、自分の性分ではないので、なんとか自分の創作活動にもつながるお金の稼ぎ方をしている。

かんたんに分けると、上で言う前者としての撮影活動と、後者に当てる北方の自然を主体とした観光ガイド・撮影ツアー・写真の販売ということになる。

写真家の中には、完全に二者を分け、全く写真と関係ないことをして稼ぎ、時間と金をみつけては撮影に出かける者もいる。また、撮影にほとんどお金をかけないでも、身近に撮影対象を見つけ、立派な仕事をしている写真家もいる。

すべての道を、自分ひとつの体で歩いていくことはできない。自分のスタンスを固める必要があるのだ。僕は昨年そのことにようやく気がつき、あらためて活動を開始したという次第である。







2013年6月4日火曜日

写真の編集

おととし撮影した写真を編集してみた。

下の白頭鷲の写真は、撮影したときのトーンを保つように以前の写真も参考にし、より親子の白頭鷲という主題をハッキリさせるために、思い切ってトリミングをした。


白頭鷲の親子

撮影後、半年以上経過している写真を現像するとき、注意しなければならないことがある。

ひとつは、トーンが前と変わってしまうということ。
新鮮な感覚で写真をとらえることができる反面、撮影したときの空気感を、ほぼ完全に忘れているために、以前撮影後にすぐ現像・編集した連作として扱うべきカットとのトーンが変わる。特に露出とホワイトバランスは、以前の編集後の写真を見ながらでないと明るさと色が大きく変わる危険がある。これをそのまま扱うのであれば、違うトーンの写真は別のフォルダに保存するなどして区別しておかないと、いつまでもバラバラなイメージしか仕上がらないという気がする。



下のクロクマの写真は、以前撮影後に編集したときのホワイトバランスが、間違っていたために、そこを調整して、クロクマの毛の青黒い実際の色を意識して現像してみた。いずれにせよ、このトーンは以前の仕上がりと違うので、以前の写真とは並べることはできない。

クロクマの親子


下のミノ虫の写真は、ジム・ブランデンバーグなど、自然写真をアートととらえる系譜の写真家の写真を参考に現像したもの。僕の構想としては、このような綺麗な自然の部分もとらえ続けていく必要があると感じていて、それは自然に興味を抱く説得力を増すことができると信じているため。上の2枚の写真群とは方向が異なってくるため、一連で織り交ぜていくためにはその表現の方法を考えていく必要がある。

朝露とみの虫


現像の際に注意すべきもうひとつは、トリミングをしたときの写真データの損失を意識しておくこと。
同じ写真でトリミングを思い切ってしたとき、これがいい写真に仕上がったとしてもプリントサイズに限界があるため、データが小さいということを忘れないように明記しておく必要がある。とにかく写真の量が多くなってきているので、写真データの管理にも意識を傾注していかなければならない。


まとめると、一枚ずつ選んでランダムに編集するとき、その写真の何を強調して、その後どうしたいのかを明確にしておかないと、現像して写真を仕上げるだけ無駄になる。なにか実験的に検証するのであれば別だが、いつも違う現像・編集方針でやっていても何も生まれないだろうということ。たぶん、今の自分にとってはここをハッキリさせていく必要がある。











2013年6月3日月曜日

キツネ

今日はじめて野生動物に追いかけられるという体験をした。

その動物はキツネ(Red fox)なのだが、これはとても興味深い。
これは明らかにキツネの勘違いによるものだからだ。

ぼくは毎日夜にランニングをしている。いままでランニングコースでは、ノウサギはよく見かけていた。キツネははじめてだった。

今日、走り始めにノウサギを2匹見た。彼らは夜行性である。夜は、ゆっくり近づけば10メートルまで行ける。神経を集中した野獣気分で行えば、5メートルくらいはいける。
この距離には必ず地域性があるので、どこのノウサギもというわけにはいかない。
しかし、彼らもいくら夜でも眼が見えるとはいえ、昼よりも動体を認識する能力は落ちるようだ。

僕を追いかけたキツネもまた夜行性だ。このキツネは、僕が見たその2匹のノウサギを追っていたに違いない。僕が往復してコースを戻ってきたときに、同じ場所で僕を追いかけ始めたからだ。もちろん僕も本能的に驚いたし、はじめは気味が悪かったが、途中から笑いそうになった。そして足を止め、正対するとキツネもギョっとしたに違いない。すぐさまキツネも足を止めて、ひと唸りした。そして僕が足を一歩踏み出すと、とっさに逃げ出したのである。

もしこれが狂犬病が伝搬したとか、そういう噂を聞いていたら、僕のほうが一目散に逃げ出していただろう。これが狂犬病に罹患した個体だと、おそらく僕に近づき、かみつくからだ。

もちろん今回も罹患しているかどうかを判断できたわけではない。正対してみて様子をうかがったときに、そういう知識を持っていれば、キツネの行動の異常を感じるはずである。クマに出会うときもハクトウワシの巣に近づくときも、そんな気持ちでやっている。

キツネも狩りのモードに入るということがあるのだろう。そうなると、ただでさえヒトよりも動体に対して敏感な眼が、余計に反応してしまうに違いない。そしてまた自分から逃げていくものだと、それがよりいっそう強まるのだろう。

それにしてもおかしな体験だった。


2013年5月31日金曜日

WB - what we (retina) see(s) -

Photograph data: D300  f5.6  1/1600  ISO400  RAW image, both photos are developed by CS6


Retouched as a whole
 This picture above is what CAMERA sees.
In contrast below, this is what we see in the nature even though our eyes have slight different aspect of color sight individually.


Retouched each division


2013年5月29日水曜日

日本の森



写真は日本に帰国した際に撮った、函南原生林の中での写真。

日本に25年間暮らし、そのあと北米で5年間暮らした自分にとって、この日本の森林風景があまりにも新鮮に見えたのは皮肉だ。

函南原生林は、箱根の南側に位置しており、地元の森林組合の意向により長年伐採から免れてきた。森はトレイルが整備されており、2時間程度で一周できるようになっている。
平成元年までは、樹齢700年で日本最古の大ブナと言われた巨木もあった。いまでも樹齢500年以上のアカガシが数本あり、永きに渡って火事を逃れ、人間に守られてきたのだとわかる。

アラスカなどのタイガ森を歩き続けた者なら誰でもわかるように、北方の木々は、主軸がまっすぐに伸び、それを中心として放射状に枝が出るものがほとんどであることがわかる。これはおそらく雪の重さに対応するため、それから冬になる前に、効率よく水分を体から出すために作られた、それら結果の構造なのではないだろうか。自分の成長は、吸収できたエネルギーから、ほぼ同量の生きるためのエネルギーを差し引いて、余分が出たときにだけ考えるといった様子で、凛とたたずんでいる。

対してこのブナを中心とした函南原生林の木々は、ラインが様々な角度で自由奔放に伸びている。寒さなぞ、当分気にしなくていいといった具合に、か細くなってもできる限り幅を広げようと伸びている。当然寿命は北方林よりも永くなる。これは自然なことだろう。それにしても、新緑の葉が太陽の光と一帯となって、存分にエネルギーを得ているようで綺麗だった。

2013年5月28日火曜日

違う空間の認識


 家の前の公園近くを散歩していたときのこと。ふと、赤い土管の外側にとまる2匹のハエが目についた。その2匹は、僕の2メートルくらい離れたところにいる。2匹は互いに見合い、静止している。注意は互いに向かっているようだ。

しかし、彼らの眼は複眼で、僕のいる方向は、彼らの視界に必ず入っている。ただ、僕の存在が、「見えている」かどうかは僕にはわからない。そのとき、片方のハエが飛び立った。20センチのところにいたもう一方も続けて飛び立った。どうやら、先に飛び立った方を追いかけているようである。これは雄と雌に違いなかった。空中で(どちらが雄かは見分けがつかないが)2匹は何度か接触していた。そして、またほぼ同じ土管の外側に着地した。

僕はこの一連の動作を見ていて、非常に興味を魅かれた。ためしに、僕は2匹の50センチまで近づいた。案の定、2匹は僕の存在から遠ざかり、少し離れた位置に再び着地した。着地すると、その2匹はまた互いに20センチほどの距離を保っていた。

このとき、僕は彼らと全く別の世界に生きているということを確認できた。僕の存在は彼らにとって、近づきすぎるとつぶされてしまう大きな物体にすぎない。ヒトも犬も猫も、彼らを襲うことができる小鳥や昆虫以外、単なる「避けた方がよい物体」でしかない。

ハエは自分たちの雌雄を見分けるという必要な感覚は備えているが、そのほかは、ほとんど意味をなさない空間の認識をしているようだ。

それにしても、人間の僕から見ると不思議なことは、オスはメスを何らかの刺激で確実に見分けるというその判断の世界の違い。ヒトは視覚世界が大きいから、ほとんど目で見分けている。それで別の感覚から雌雄を見分けるという認識をほとんど理解できない。

もうひとつ不思議なことは、互いに人間には追いつくことのできない瞬発力で反応しあう、この時間の世界の違いである。

観察していると、ハエはあきらかに僕らとは違う世界で生きていると考えざるを得ない。