2010年10月24日日曜日

Moose in estrus


Fighting Bulls





Kissing Moose


秋、9月半ばから11月の初旬まで、パートナーを探しながら歩き回る。上の写真は最上位の雄ムースと小川の方からやってきた雌ムース。このあいさつでお互いのほとんどを知る。


Fighting Moose

スパーリングと言われる角と角でのぶつかり合い。そのぶつかりが激しい時にはその音は山の壁に反射して、遠くにいるムースをも奮い立たせる。繁殖シーズンに雄は何度もこの行動を繰り返して、他より少しでも優位に立とうと努力する。




Tundra Moose

2010年10月20日水曜日

写真と絵画は何が違うか - part 2 -

レトリック(修辞)に関しての違いから自分の追求する写真へ



そもそも、絵画というのは画家が見た、あるいは認識した物を線や色彩によって描き出すことであって、その画家本人の思想を、高度な視覚表現の技術をもちいてキャンバスに含めることができる。 つまり100%に限りなく近い程度、その画家が造る(修辞する)ことができるものである。これは絵画の本質である。とくに16、7世紀の西洋絵画はこれなしでは絵画でなかった時代もあるようだ。逆に写真はもともと存在する「もの」を光と撮影技術を使ってフィルムに写し出す。したがって、写真においてレトリック(修辞)を含ませる場合それは造られた写真ということになる。(注:ここでのレトリックとは、政治的な思想などを言語化されていない絵柄として巧妙に織り込んでいくその手法のことである。したがって、美学でいうレトリックとは区別される必要がある。)これは、様々な意見があるとは思うが、僕の考えでは写真の本質ではない。
写真はありのままを写し出すアクチュアリティが本質なので、「撮る」という行為は本質でも、仕組まれた物を写し、表現までもっていくことは本質から外れる。このようにイデオロギーを含んだ写真は修辞学からは考えられるが、純粋な美学からは考えるべきではない。
したがってレトリックは絵画において公正な創造基準として見ることができても、写真に於いてはそうではないと考えられる。

いずれにしても写真に自分の意思を含めてはいけないと考えている訳ではなく、僕の考えでは第一に写真を「きれいに撮る」ということが基本的なことであって、第二に構図、色の配置、視線の誘導の技術、第三に意思である。
自然写真における写真作品を創作する上で絵画から学ぶべき明確なところは、上記三点を絵画について考えた場合、この第二のところのみである。また、レトリックというフィルターを除去した絵画、修辞学ではなく美学で考えることのできる絵画を選別していかなければ、絵画から写真を学ぶことは危険である。なぜなら、その構図が、色の配置が、視線の誘導が、作者の意図するイデオロギーのために用いられたとするなら、それは僕が学ぶべき手法ではないからである。

自分の求める写真とは、時にイデオロギーを含ませることは自分の表現を一般的にわかりやすくするために必要なのかもしれないけれど、そうではなくて、動物あるいはもっと大きい範疇での「自然」の普遍性をディスカバーしていく写真でありたい。 そういった意味では自分の求める写真は芸術ではないのかもしれないが、このことは今後作品を仕上げていく上で意識し続けなければいけない自分への制約である。

2010年10月1日金曜日

Caribou

9月27日、野生動物を保護している施設(AWCC)を訪ねた。

Caribou

この時期は繁殖期に近づいてるため、雄たちは興奮している。



体が多きいことと、角が大きいことが雌獲得の条件になる。体が大きくても角が短いものは力比べで勝てない。