2012年6月30日土曜日

Potter Marsh (ポッター沼)



太陽の光を浴びて、湖面を埋め尽くすほど茂る。


ポッターマッシュと呼ばれるこの湖沼は、道路を挟んで海に面している。

そのため、潮が満ちるときは、沼に海水が浸透してくる。

程よくミネラルを含み、小魚もたくさんいるということが、

ここを渡り鳥の繁殖場所にしているのだろう。


カナダガンの親子


カナダガンは、皆いっせいに卵を産むということをしないようだ。

親によって、連れ添っている子の大きさが、ずいぶん違う。



小黄足鴫(コキアシシギ)


ミヤコドリに近い歩き方と、鳴き方をする。

ちょうど足が半分くらい水につかるところを、行ったり来たりしてエサを探す。

キョクアジサシとは違い、小魚ではなく土壌の中の生き物を捕食している。



Bluebell




日本では見たことがない。

辞典を調べると、ヨーロッパ原産でユリ科の多年草と出ている。

春の花らしい。

このブルーベルを、背景の色に意識を置いて、撮影した。

青の対照色は、単純にいえば黄色だ。

背景の黄色は、夕方よりのオレンジに近い、

まだオレンジになりきっていない光。

これを反射する、雑草とたんぽぽがうしろにある。


2時間ほど歩き回っていると、ピンク色のも見つけた。



ピンクなので、背景は丸くぼかしてみる。

たぶん、もう少しクローズアップの方がよかった。

花を切り取るときは特に、色と背景の構図が、対象を引き立たせる。

ということがわかった。



2012年6月25日月曜日

夏の子育て


アラスカの夏は、渡り鳥の子育ての場となっている。

アンカレッジの町からすぐの湖沼地帯に、午前6時ごろ足を運んだ。

日曜日の朝は、人がほとんどいないということを鳥たちも知っているようだ。

人の歩く道のそばまで来ている。



子に餌を与えている親鳥。



このポッターマッシュという湖沼地帯で、カナダヅルを初めて見かけた。

6月から7月よく見かける種には、極アジサシ、カナダガン、コキアシシギ、Violet green swallow(日本不明) など。

足しげく通っている人からすれば、20種くらい挙げるのではないだろうか。


2012年6月13日水曜日

異なる対象の撮影



友人の結婚式で、カメラマンとして参列した。
二人のために写真を残せることへのよろこびと同時に、冬から春にかけてトレーニングをしていた撮影技術を、このときに試せる機会でもあり、緊張した。

何をするにも、あるていど時間をかけて努力したことが、正しかったのかそうではなかったのかを試す、試合は、緊張してしまうものだ。



イリノイで進めていた技術トレーニングは、

利き腕よりも弱い左腕の筋肉トレーニング、

カメラを構えて撮影するまでの時間の短縮、

構図もテーマもシンプルな写真づくり

が、おもな練習だった。

筋トレは、カメラを支えて、1時間しないうちに腕に疲れがきていたために、これが長ダマを抱えたとき、ブレにつながっていたと自分なりに分析した。それを克服すること。

撮影までの時間短縮は、動物の動きに対応し、瞬時に適正露出を得ることを、より確実に、すばやくするため。これには、最適な露出を瞬時に選び出す緊張感も伴うため、カメラボディの各ダイヤル操作、光の読みなど、総合的に効果があると考えられた。

シンプルな写真づくりは、自分の中でテーマを持ち、各写真はそのテーマに沿う、あるいはテーマを強調させる、シンプルなサブテーマで撮っていく。




人を撮影することは、多くの意味で動物とは違う。ということを再認識しておく必要があった。

まず、基本的に式の撮影では、顔の表情が写真のほとんどを決めるということ。
これは動物撮影では、ポートレートを撮る以外に、そこまで意識する必要のないことだ。ここが一点。



物撮りも、忙しい式の中、極力その対象をきれいに、正確に撮ることに集中した。


人は動物よりも、カメラを意識するため、それを避けるように撮るということが、もう一点。
友人ということもあって、この点はだいぶ楽にできたと思う。おそらく参加者のなかで自分が一番緊張していたかもしれない。いい意味で。

他にも、当たり前だが、写真を見る人が人間ということもあり、写真の中の人の挙動が、より細かい次元で認識される。そのため、少しバランスの悪い手足の位置で写し止めた場合に、明らかな違和感として表出するということ。これは、今回撮影していて気付いた。


結果としては、自分の中で80点は越えた。

大きな収穫は、いままでの、撮影枚数に対する技術的な失敗の割合が、かなり減ったということ。
それから一枚の写真にひとつのテーマという、シンプルさの表現にも、考えていたよりも近づいた。これには、対象にあまりにも簡単に近づくことができるために、構図をシンプルにすることが簡単だったということを、忘れない方がいい。



2012年6月11日月曜日

1000 と 1


歴史は振り返ったときにはじめて、その区切りが見えるものだと思うけれど、いま、ひとつの自分の中での、写真時代が終わったように思う。

とにかくたくさんを見て、目新しいものに目を向ける、そしてシャッターを切るという時代の終わり。

時代と言うと大げさだけれど、自分に関わることになると、このくらいのイメージだ。

なかなか思うように撮影ができない環境を経て、今までに考えたことのないくらいに、写真を撮ることを考えると、この先やはり、自分にしか撮れない一枚を追求することに絞られた。

1000枚のいい写真よりも、誰もが驚愕する1枚の写真。

ジャーナリズム性はあっていい。そのほうがわかりやすいだろう。感動は継続させて写真に取り込む。

いまは、素地がないから撮りたくても撮れない。かといって、これを言い訳にせずに、撮り続けることはする。ある程度の、おぼろげなイメージはあるから、何とかなる可能性は現状でもある。

これを成功させるために、技術は必要になるだろうけれど、何よりもまず、生態の知識と観察からの確信が必要になる。そして、長期間、腰を据えた取り組みが要になる。