2016年10月26日水曜日

「意味」が風景を印象的なものにする


 久しぶりに、秋の日本を訪れて、風景を見て歩いて気づいたことがある。その気づきは、以前見た秋の風景とは違った形で自分の前に現れたことから始まった。

 目の前に現れた風景は、幼い頃から見ていた風景と違いはない。紅葉する秋の木々が、10年前は違っていたとは言えないだろう。僕が10年前に見た紅葉の風景は、今も同じように綺麗に紅葉しているはずで、木一本を見たときに、微妙な温度の違いや年ごとの紅葉の度合いの違いこそあれ、経年変化のような定量的な変化があるはずはない。つまり、今も10年前も、風景はそこまで大きく変化していないはずなのだ。では、今回の帰国で、日本の紅葉がより一層自分の中で感動を起こすほどに綺麗に見えたのは、なぜだろうか。ただ久しぶりだから、という理由ではないことは明らかだった。

 僕は、これについては、「意味」が風景を印象的なものにするのだと解釈した。簡単に言えば、細かい点が見えるから深く感動する、ということだ。同じ対象でも、ただ漠然と感じるままにそれを眺めるのでは、感動はあってもそれは薄い。しかし、紅葉であれば、その紅葉している木の種類、気温によるでんぷん質の変質により、アントシアンやカロチノイドが生成されることの意味、木が生き抜くための冬支度、はたまた春のための準備をしていることの背景を知ると、「紅葉」という言葉の意味は自分の中で深まる。そして、それを眺めるときに僕個人と目の前のオオモミジの木一本との親和性が増す。これにより僕とオオモミジは関係性を持つことになり、僕の中に、木の葉が紅葉することの意味が付与される。この「意味」が、風景をより一層印象強く、自分の中に記憶されることになる。そのために感動し、僕の中の風景に、より風情がでて綺麗に見えるのだろう。「見る」とは本来そういうことなのかもしれない。だから世の中は人によって違って「見える」のだ。

 このことから、感性は知識や体験を重ねることで、強化できるものと言える。生まれながらもち合わせる部分だけが感性ではない。詳細を知ることから、事のニュアンスがわかるようになり、自分の中により深い興味を覚える。(場合によっては、ニュアンスがわかっても興味を覚えないこともあるだろう。当たり前だが、そこには個人差がある。)興味は、その対象を自発的に秩序づけていく。様々な概念や言葉を対象に与え、限定していく過程でその対象を秩序づけていくのである。秩序づけると、自分にとっての意味が生まれる。意味深長な記憶は鮮明に残る。それが意味の本質だと思う。意味を知ることで、自分の中での紅葉の印象が明確になり、感動の理由がより鮮明になる。つまり、興味をもって知る体験から、その対象への感性を鋭くする。言葉を持たなかった頃の古人は、この過程を、体験だけを通して知覚していったに違いない。

 感動とは、外的な刺激から自分の中に与える影響だけでなく、自分の内的な刺激から外の事象を意味付けすることで、より大きなものとなる性質がある。つまり、感動を高める方向は2通りある。(例えば、ハリウッド映画などは、外的な刺激からの感動を過剰に高めようと躍起になっていると言えるだろう。だから刹那的で深みが出ない。)また、一度目の意味付けは、自分への新しい刺激となるため、新鮮に感じられる。再び同じ風景に出会い、また感動しようと思えば、自分が変化して(強化されて)いなければならないだろう。自然観察には、そういう要素があることに気がついた。このことで、今回の帰国は非常に有意義なものになった。



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