2008年7月25日金曜日

The sense of a child surprising me


子供の一言にハッとさせられた。
テニスコートの隅で互いに今日の出来事を話す子供たち。
その隣で僕は自分のシューズのひもを結びながら耳を傾けていた。

「わたしはね」
「送別会をやったの」
「送別会って、楽しいよね」
「なぜだか悲しいけど楽しい」
「そうでしょ?」

ダイレクトにすごく納得させられた。
いままで考えたことも無かったことが、子供の一言で気づかされることは多い。
子供と接する仕事をしている人は気づくだろうが、ほんとうに少ない語彙を使って、明確に感情を表す。もちろんそれがうまい子供もいれば、へたな子もいる。
おそらく子供は皆、鋭く事象を感じ取っているのだと思う。下手な子の場合、それを言葉にできないことの方が多いために、喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだり、時には泣いたりして表情や体で示そうとするのだろう。

例のその子はとても大切な感覚を身につけていると思った。
送別会を悲しいと感じるだけでなく、楽しいと感じる。
その子の話の中から、会のなかでのゲームや遊戯が楽しい、そういう楽しさではないということは感覚的にわかった。
友達とはそこでお別れだけど、また会えると確信しているその楽しみ。この期待にも似た楽しみはその子がちょっとした苦しい時期に、大きな支えになる。
そしてその子はまた、ふとしたときにどこかで頑張っている彼らを思い出すのだろう。
「大旱の雲霓を望むがごとし」である。「友」とはすなわちそういうものだ。


※写真は尊敬できる仲間たちが河口湖キャンプに誘ってくれた時のもの。



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