2010年3月2日火曜日

平和


 突然二枚の挿絵を雑誌の見開きで見せられて、瞬時に、「ヒトもべつの生態系の中にいるのではないか」という考えが浮かんだ。

左の挿絵は1929年〜1995年までのイエローストーン国立公園。下の絵がその最近の様子だ。
このイエローストーン国立公園は、人間の活動に比例して生態環境が悪化しつつある他の多くの国立公園とは違い、生態系のバランスを回復した場所として最も有名である。そのポイントは人為的にオオカミを再導入したこと。導入後、増えすぎたシカの数が安定していき、それに伴い、これまでシカに食べ尽くされていた植物が繁殖できるようになった。こうして食物連鎖である生態サイクルがうまく循環しだしたのである。
この、「全体としてうまく回りだした」ことが最も重要なのだが、シカにとっては迷惑だったはずである。いままで天敵がいなく悠々自適に、食べたいものを食べたいときに好きなだけ得ることができた。そんなところへ急に天敵であるオオカミが現れたため、鈍った感覚は容易にオオカミの攻撃を受け入れた。
警戒し、死にものぐるいで逃げなければ食い殺される状態。生態系でいえばこれが安定であり、正常である。結果として、シカたちの感性は研ぎすまされ、天敵に殺されない方法を何世代もかけて見いだそうとする。これがひとつの進化。


民主主義という言葉をこのブログで使うのは抵抗があるけれど、人間の世界を考えたとき、いままで最高の政治形態だとされてきたその形態の弱点が、いま間違いなく露呈されている。
たとえば、文化の水準で一つの国を見た時、大衆が力を持てば、その文化は自動的に大衆の利害や趣味によって作られる。そして、大衆は自らの好みにあった音楽や芸術や映画や読み物を求めるだろうし、多くの人がそれを喜んで供給する。そうなれば、そうしたものの水準がたちまち二流三流に落ちてしまう危険性がある。(引用)
落ちていく流れは力を必要としないのだから、自分たちの欲に従えばいいだけである。要するに、文化にせよ衣食住の生活にせよ、大衆は好きなものを簡単に手に入れることができるようになった場合、生きる力を失う。

この、現在ヒトが直面している大きな問題は、今後の道を自覚するために生態系や個々の動物から学べることが多すぎるほどある。確かに動物は何も考えず、欲で生きる部分がほとんどだが、その代償として寝ても覚めても死が隣りに居座る。オオカミは繁殖のための順位争いや縄張り争いで互いを殺し合う。また、広大な縄張りが必要なこともあり、数は増えすぎない。ヒトは生物学的には生態系サイクルから外されているとはいえ、その摂理は人間社会も同じである。戦争をしてはいけないのなら、そのための代償が必要だし、もし欲に従うのなら、同様にそのための代償が必要である。

「個々が必死にならねば生きていけない状態」これには負荷が大きくかかり、辛いが、この状態でなければ存続できないのだということを自覚する方法を見いださなければならない。




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