2016年11月2日水曜日

温暖化で、氷河の数は増える!?

氷河のクレバスにて撮影

 いま、氷河の勉強をしている。それはもっと氷河について知りたいという、単純な理由から。僕の活動のモチベーションのほとんどは、好奇心から来ている。

ところで、アラスカの氷河は一体いくつあるのだろう。

 これは去年から漠然と思っていた疑念だ。政府観光局の話だと、その数は10万を超えるという。誰が数えたのか。

 アラスカ州の土地の5%が氷に覆われているという大まかな情報は、アラスカではよく知られていることである。これは北海道(8万㎢)とほぼ同じ面積が、全て氷で覆われているのと同じである。ちなみに注意が必要なのだが、これは氷に覆われている面積であって、氷河の総面積ではない。面倒だが、氷床 (ice sheet)、氷冠 (ice cap)、氷河(glacier)、氷原 (ice field)、氷山 (iceberg)、氷塊 (ice gorge)、流氷 (drift ice)、の定義は全て異なる。。。では、数はどうなっているのだろうか。

 調べを進めていくと、23,112という数字に行き着いた。このうち名前のついた氷河は585ある。これは2013年の報告書であったが、どうやらこの時点でアラスカには氷河が23,112あるということになっている。(データ元:Climate Change 2013 - Physical Science Basis)




では、誰がどうやって調べたのか。

 氷河というのは、山に溜まった大きな氷原から、いくつもの方向へ支流のように出ている。ちょうど手のひらを広げて、下にあるものを掴もうとした時の手の形で例えると、イメージしやすい。手のひらの部分が氷原で、それぞれ5本の指が氷河ということになる。そして今、氷河の数を考えているわけだが、ここでいう氷河の数は5本で、その面積を簡単に言えば、その指の付け根から指先までの事を言うので、ひとつの氷河の面積を測るときは、指一本の面積ということになる。大雑把ではあるが、これが、氷河を調べた本人アスター科学研究チーム (ASTER Science Team) がグリムス GLIMS (Global Land Ice Measurement from Space) という研究プロジェクトで扱っている定義である。そして、このプロジェクトは、定義に従って衛星写真を解析し、氷河をアウトライン(氷の外側に線を引くこと)することで、氷河の数を数えている。

 これによって2013年、アラスカには氷河が23,112あるとされた。しかし、データを追って調べてみると、この数は日進月歩で変化している。2014年にはこの数が、なんと26,944に増えている。(The Randolph Glacier Inventory P544  ※報告書は違うが、データ元は上記研究機関と同様)  氷河は後退しているというのに、数が進歩しているというのは奇妙だ。しかもたった1年で 4,000 近くも増えている。


 本題に入る。タイトルの「温暖化によって氷河の数が増える」とは、どういうことだろう。上述の研究機関の世界の氷河についての最新報告書に、以下の文面がある。

The number of outlines has increased to 211,181 and their total area has decreased to 705,441 km2

つまり、前回のデータ(氷河の数 約19万8千)から比較して、世界の氷河の数は21万くらいに増えて、総面積は70万㎢にまで縮小している、ということ。総面積は減っているが、確かに、氷河の数は増えている。しかも、アラスカだけの話ではなくて、世界で増えているということだ。これはどういうことだろう。
詳細はこちらの15ページ

 ちなみに世界の氷河総面積について、上記のデータは2015年7月の報告書で、705441 km2 。2014年の報告書では、726,800 km2 と出ているので、わずか1年で 21,359 km2 もの氷河が消失したことになる。この異常さがわかるだろうか。四国より一回り大きいエリアが、氷河から陸地に変わっているということ。たった1年で。。。

様々な方向から来た氷河が合流している
話を「氷河の数」に戻すと、研究プロジェクトのグリムス(GLIMS)の報告によれば、氷河の数は増えているということであった。読み進めると、タネが明かされた。
 ここに最重要ポイントを記しておく。氷河は右の写真のように、いくつかの支流が合流して、一つの氷河になっている場合が多分にある。この場合では、氷河は一つとカウントされる。想像していただくとわかるだろう。温暖化によって氷河が溶けていくと、氷河の末端は、山の方へ退いていくことになる。二つの支流が合流する地点まで後退すると、二本の氷河ができ上がるのだ。イメージできない場合は、鉛筆で書いたYの字を下から消しゴムでゆっくり消していったときを考えればわかる。すぐに線が2本になる地点があるだろう。氷河の数が増えているというトリックはここにあった。ただし、この氷河の境界線を決める定義づけはまだ曖昧なままで、今後研究を進めていく中で確立する必要もあるようだ。

氷河の数を決めるのが如何に難しいかが、アラスカ大学の研究者の記事に書かれている。How many Alaska glaciers? There's no easy answer. 

 ここまで氷河の数にフォーカスしておいて言いにくいが、実のところ氷河の「数」は重要ではない。今回の話しで言えば、氷河の数を数えるときは「どこからどこまでが一つの氷河なのか」という取り決めに縛られている。このような例は、氷の境界線の場合だけでない。例えば動物の生息域を考える時も同様だ。アラスカ州とカナダとの境界線近くにいるトナカイの数がその例で、「アラスカ州にはトナカイが90万頭いる」という情報は、アラスカ州においてハンティング規定を決めるときには有効でも、トナカイという生態そのものを研究していく中では意味をなさない。この場合、アラスカ州とカナダを含めた北米全体で、どのような個体群動態を示しているのかが重要になる。つまり、ほとんどの場合で言えることだが、人間が決めた境界線は、自然界では一つの流れの中に与するので、人間の都合以外では意味をなさない。

 地球のことを考えたときに重要なのは、全史的な氷河の、その溶け出している量とスピードなのであって、ひいては「それを見てどう考え行動するか」なのだ。報告書のデータから、氷河の総量が急速に減っていることが明らかになった。さて、どうするか。






2016年10月26日水曜日

「意味」が風景を印象的なものにする


 久しぶりに、秋の日本を訪れて、風景を見て歩いて気づいたことがある。その気づきは、以前見た秋の風景とは違った形で自分の前に現れたことから始まった。

 目の前に現れた風景は、幼い頃から見ていた風景と違いはない。紅葉する秋の木々が、10年前は違っていたとは言えないだろう。僕が10年前に見た紅葉の風景は、今も同じように綺麗に紅葉しているはずで、木一本を見たときに、微妙な温度の違いや年ごとの紅葉の度合いの違いこそあれ、経年変化のような定量的な変化があるはずはない。つまり、今も10年前も、風景はそこまで大きく変化していないはずなのだ。では、今回の帰国で、日本の紅葉がより一層自分の中で感動を起こすほどに綺麗に見えたのは、なぜだろうか。ただ久しぶりだから、という理由ではないことは明らかだった。

 僕は、これについては、「意味」が風景を印象的なものにするのだと解釈した。簡単に言えば、細かい点が見えるから深く感動する、ということだ。同じ対象でも、ただ漠然と感じるままにそれを眺めるのでは、感動はあってもそれは薄い。しかし、紅葉であれば、その紅葉している木の種類、気温によるでんぷん質の変質により、アントシアンやカロチノイドが生成されることの意味、木が生き抜くための冬支度、はたまた春のための準備をしていることの背景を知ると、「紅葉」という言葉の意味は自分の中で深まる。そして、それを眺めるときに僕個人と目の前のオオモミジの木一本との親和性が増す。これにより僕とオオモミジは関係性を持つことになり、僕の中に、木の葉が紅葉することの意味が付与される。この「意味」が、風景をより一層印象強く、自分の中に記憶されることになる。そのために感動し、僕の中の風景に、より風情がでて綺麗に見えるのだろう。「見る」とは本来そういうことなのかもしれない。だから世の中は人によって違って「見える」のだ。

 このことから、感性は知識や体験を重ねることで、強化できるものと言える。生まれながらもち合わせる部分だけが感性ではない。詳細を知ることから、事のニュアンスがわかるようになり、自分の中により深い興味を覚える。(場合によっては、ニュアンスがわかっても興味を覚えないこともあるだろう。当たり前だが、そこには個人差がある。)興味は、その対象を自発的に秩序づけていく。様々な概念や言葉を対象に与え、限定していく過程でその対象を秩序づけていくのである。秩序づけると、自分にとっての意味が生まれる。意味深長な記憶は鮮明に残る。それが意味の本質だと思う。意味を知ることで、自分の中での紅葉の印象が明確になり、感動の理由がより鮮明になる。つまり、興味をもって知る体験から、その対象への感性を鋭くする。言葉を持たなかった頃の古人は、この過程を、体験だけを通して知覚していったに違いない。

 感動とは、外的な刺激から自分の中に与える影響だけでなく、自分の内的な刺激から外の事象を意味付けすることで、より大きなものとなる性質がある。つまり、感動を高める方向は2通りある。(例えば、ハリウッド映画などは、外的な刺激からの感動を過剰に高めようと躍起になっていると言えるだろう。だから刹那的で深みが出ない。)また、一度目の意味付けは、自分への新しい刺激となるため、新鮮に感じられる。再び同じ風景に出会い、また感動しようと思えば、自分が変化して(強化されて)いなければならないだろう。自然観察には、そういう要素があることに気がついた。このことで、今回の帰国は非常に有意義なものになった。



2016年9月19日月曜日

絶食、氷河、カヤック


 浜から食料が流された。満潮のラインを読み間違えたからだ。
 テントで目が覚めて、いつものように朝ご飯のために食料を取りに行く。海岸に昨晩置いておいた食料箱がないことに気がつく。昨夜寝る前に、満潮時のラインを計算し、そこより高くに置いたはずだった。その辺に落ちていないか探し回るが見当たらない。ガスやその他、食料以外のものは数個見つかる。
 ある程度歩き回って諦めた。
 潮は僕の4日分の食料を持ち去り、僕に初めての試練を与えた。今まで食料がなくなるという撮影行はなかった。
 カヤックで、船に降ろしてもらったポイントまでは戻ることができる。しかし、船が来るのは2日後の昼。それまでどのように凌ぐか。気持ちは焦っていなかったが、先を考えると、なんとかしなければならなかった。しかし、この入江の末端、ジョンズホプキンス氷河の撮影は、僕にとって絶対必要だった。
 撮影は外せないから、その辺にあるものを食べることにした。食べられるものなどあるのか。まず、氷河から溶け出した水と持参したフィルターがあるので、飲み水は確保できる。これで2日くらいなんとかなると思った。氷河が後退したばかりのところには、地衣類が生えた後、低木層が育ち、そこにソープベリーがなる。それは食べられる。あとはヘラジカの好きな柳の葉っぱでも食べればいいだろう。
 早くに気持ちを切り替え、氷河の末端の近付けるところまで近づいた。うまく上陸できるところがあり、300の望遠で氷の崩落を5時間待った。崩落が面白いように起こる、とてもアクティブな氷河だ。またしばらくの沈黙が続くと、空腹が押し寄せる。柳の葉をかじるが、うまく飲み込めない。
 
 浜にはネメス夫妻がいた。結局、彼らにクラッカーのご馳走をもらった。クラッカーをかじり始めた時、僕は情けなくなってきた。カヤックの長旅は3回目で、もうアラスカに来て8年にもなるというのに、初歩的なミスをして、アラスカの人に助けられた。
 この夫妻は長く、グレイシャーベイ唯一の町グスタバスに住んでいる。この海のことはよくわかっている人達だった。夏の時期は二人でダブルカヤックを漕ぎ、自然をただ見て回るのだという。写真を撮るわけでも、体験を文章に起こすわけでもなかった。





2016年8月18日木曜日

推敲の方法


作品は、最低5人に見せなければ、公に出せない。その5人とは、

1.コーヒーを飲んだり、いい呼吸のリズムで集中し切っている自分
2.昼間の通常状態の自分
3.夜の疲れた時の自分
4.お酒でちょっと酔っている時の自分
5.朝のスタートが切れていない時の自分

この5人に見せてから、次に友達に見てもらったり、
勝手に師匠にしている人に見てもらったりして推敲する。
順番も1〜5がいい。

基本的に、1番目の人が調子に乗って作る。
2と3番目の人が、酷評を入れてくる。
4番が慰める。
5番が、冷静に見る。

そして、 時間的な余裕があれば、

6.1か月後の自分

にも見せられると、より冷静に見られる。つまり、発酵して良くなる。


作品とは、ある目的に当てはめるための一枚の写真、組写真、写真集、写真付き文章、雑誌投稿のための旅日記などのこと。


2016年8月16日火曜日

境界線

 ドキュメンタリーであっても、やはり、主観から語らざるをえない。自分の経験から紡いだ物語を、客観的に語るとしたら、とても重要なものを落としてしまう気がする。自然写真は、そこに写る被写体そのものは事実だが、四隅の辺は主観である。切り崩して4辺を決定するという段階で、つまりシャッターを押す瞬間に主観が伴う。さらにそれを、撮影した者が自分で複数枚並べていこうとすれば、主観的表現にならざるを得ないだろう。
 客観的なことに大きく頼ろうとしている自分がいた。アラスカに行くことを決めた時に、主観に従って行動すると決めたはずだ。それを再び思い起こし、作品制作の段階で、自分のスタンスを軌道修正する。この世の「普遍」というものをこらしめたい気持ちも少しは湧いてきた。

2016年5月28日土曜日

風景を感知する

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風景写真の一つの求め方

フリードリッヒ・グラダのバッハを聴きながら、
音楽の清らかさを感じ、この清らかさへ創作を方向づけることと、
写真の絵柄として清らかさの方向を求めることを、同時に感覚する。
あとはこの感覚に、歩きながら出会うために、自分の体を外に出す。
感覚を持つ心を、自然の中へ運び込めば、出会った時にその創作は、決着する。

風景の清らかさは、音のある音楽を聴いている時よりも、
音のない音楽を記憶から流す時に、感知しやすい。
絵にも音はないが、音があるからだろう。

歩きながら流す。シトカローズの陽葉は風になびき揺られているのではなく、自らがその風に乗って踊り出すような喜びに揺れる姿を表現し始める。

2014年11月8日土曜日

A different apprentice system 形を変えた徒弟制度


     I appreciate the photographers who help me learn and give me some advices via email or in person about nature photography. Not only they provide me with the photography tips, but also they tell me how to live and how you should act as a nature photographer in this competitive world. This is so precious thing.

     Apprentice system in the realm of photography in Japan, one-on-one training system, is considered to be lost in these days. I, however, still exist in the system which was changed slightly to a different type of it. "Mentorship" in the U.S. is a similar idea as I want to talk about. So, I have several mentors whom I cannot run into the professional goals without. And, they try and test me sometimes to get me become a better photographer. 

     Facebook is a useful tool but it is mere a stepping stone for making a strong bond relationship with a predecessor who carries you to farther steps.





写真について、いつもアドバイスをくれる方たちに感謝。

写真の世界では、ほとんど徒弟制度は無くなったと言われているけれど、僕は間違いなくその中にいる。

形は変わっていて、師は特定の一人ではなく、数名の複数という形。
日本では、最近メンターシップといわれているのがこのかたち。

撮影の技術だけではなく、どう渡り歩き、生きていくかの助言を暗に伝えてくれる人たち。

この人たち無しでは、自分の活動の飛躍はこの先もあり得ないと、最近よく思う。