2010年12月16日木曜日

謙虚さ VS 達成感


岩瀬大輔という人の本をアマゾンで読んでいたときに、近頃写真について倦怠感のようなうやむやがたまっている原因がこれでわかった。
それはここ最近達成感を何も感じていないということだった。

いままであまりにもレベルの高いプロ写真家の作品を手本にして来たせいで、気付かぬうちに自分の作品と彼らのものを比較するようになっていた。経験もセンスも基本的な撮影技術レベルも違うプロの写真家と対等に比較などするものではない。自分のレベルを計る時にはいいだろうが、慢性的にそんなことをしていると、自分の写真に自信をなくすだけである。達成感も何もない。要するに、最近自分は浮き足立っていた。3段抜かしでプロの作品に並ぼうなど段を踏み外すだけだ。過信していたのかもしれない。正直、焦燥感もあった。そのせいで撮影後の画像処理も今見ると去年に比べて過度に行っているものが多い。自然写真が人工写真になっていく過程である。ごまかすつもりはなくても写真にはそれが現れるということを知った。

そんな焦燥感を落ち着かせてくれるのは自分にとっては本であった。普段写真以外の本では芸術に関するものや古典を読むことが多いのだが、久しぶりになにげなく自己啓発本を手にした。二十歳の頃これでもかという程読みあさったジャンルである。ここに自分を謙虚にする原点があった。謙虚さは自分を正しく評価する。本来の自分の性格に謙虚さが備わっていないことは自覚していたのだが、いままで自己啓発本によって自分の謙虚さを維持していたのだということは知らなかった。ここで学んだ重要なことは、謙虚さを取り戻すことで、地に足をつけた評価を自分に下し、小さいことにも達成感を覚える、ということ。達成感は自分の職業が生き物であるとするならばその餌に等しい。枯れれば飢えるし、摂りすぎれば肥える。そしてこの感覚を得るには謙虚である必要がある。

ときおり自己啓発本を読むことで自分へ謙虚さを備え付け、食べ物が自分の体の一部になると同じように、徐々にこれを自分のものにできれはいいと思っている。 つい先週ガイドをしたときのお客さんが言っていた。「人間万事塞翁が馬」とは中国の故事で、幸不幸は予想のできないことのたとえである。日々起こる出来事に一喜一憂することなく、幸福がいつ禍いになるかも、禍いがいつ幸福に転じるかもわからないのだから、甲の日も乙の日も落ち着いていられよ。ということである。謙虚さの根源はこのたとえにあるように感じた。
これは若者が思考し味得することではないけれど、謙虚さを自分のものにする上でときおりこのように反省してみることには価値がある。

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