2008年8月19日火曜日

出発前夜

心境について、聞かれた友達には答えているが、ワクワク80の、不安20。といったところだ。自分の気持ちだけでなく、昨年、ウィスコンシンに語学留学している経験から不安要素が解消されているところは非常に大きい。
そもそも4、5年前には僕ごときが海外の大学に入れるわけは無いと、本気で思っていた。けれど、あるときを境に、心の底から留学したいと思うようになった。そして、そうなるように考え方と体をシフトさせていった。ある程度の覚悟(*1)をしてしまえば、ほぼ考えたように事を運ぶことが出来る。この考え方について、哲学者であり経済学者のJ・S・ミルが「自由論」の中でいい示唆を与えてくれている。以下、興味の無い人には退屈になるだろうが、続ける。

ジョン・スチュアート・ミル(以下:ミル)の『自由論』は最近読んだ本だが、自分が思う道を進んでいく中で、その選択を確信させてくれる思想が力強く説かれている。特に、幸福の諸要素の一つとしての個性という章の中で、「人間性は、模型にしたがって作り上げられ、あらかじめ指定された仕事を正確にやらされる機械ではなくて、自らを生命体となしている内的諸力の傾向にしたがって、あらゆる方向に伸び拡がらねばならない樹木のようなものである」という一節がある。前半の従属節の部分は聞き飽きるほどに世間で言われている、機械人間を示す内容で退屈だが、後半の「内的諸力に従って拡がる樹木のよう」という部分には感動した。これこそ自然の原理に従う自由の本質だと思う。 (*2)
又、「唯一の確実な永続的な改革の源泉は自由である。単に慣習であるがゆえに慣習に従うということは、人間独自の天賦である資質のいかなるものをも、自己の裡に育成したり発展させたりはしないのである。知覚、判断、識別する感情、心的活動、さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨されるのである。」つまり、慣習に従う行動は何の生産性もない。人類の発展・進歩の原理とは、強力な自由をもった多様な個性の集まりということになるだろう。 話が多少逸れるが、生物の多様性も人間の個性についてもそうである。環境がその多様さを容認しなければ、単調な、非常に脆弱なものしか生まれない。「一様を求める教育や社会」とは、これにおいて危険であると思う。

*1 ちなみに、ある程度の覚悟をしてしまえば事は考えたように運ぶことができる、と先に述べたが、この「ある程度の覚悟」とはミルによれば「自分自身の責任と危険とにおいてなされる限りは」という条件を意識した行動をとる覚悟ということである。当然ながら、自由気ままにのびのびと、といった甘い考えだけではないことをきちんと述べている。そこらへんは本当に外せないところだ。
*2 また、ミルの述べている自由とは、内面的自由ではなくて社会的自由についてである。

とまあ、気難しいことを述べたが、結局のところ「やりたいようにやっているだけ」という言葉が今の自分に一番しっくりくる。この先やはり今までどおり、いろんな人に迷惑をかけるだろうし、自分としても「不安」という、感じ悪い奴と同居し続けなければならないと思う。ただし、それだけで終わるわけには行かない。これから徐々にそれらをひっくり返すだけのことはするつもりでいる。



「人間の目的、すなわち、永遠または不変なる理性の命令の指示したものであって曖昧なまた移ろいやすい欲望の示唆したものではないところの、真正なる目的は、人間の諸能力を最高度にまた最も調和的に発展せしめて、完全にして矛盾なき一つの全体たらしめることにある」 -ヴィルヘルム・フォン・フンボルト

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