2008年10月18日土曜日

投稿特集 第三回:赤祖父俊一さん

 オーロラについて語るためには、この人について知っておく必要がある。アラスカ地球物理学研究所の所長を長年務めた赤祖父俊一(あかそふ・しゅんいち)さんである。氏はこれまでオーロラ現象の定説とされてきた理論を何度も覆してきた方である。初めて”赤祖父”という名前を知ったのは僕がアラスカについてしらべていた昨年の冬のことである。静岡県三島市立図書館で、赤祖父さんの自伝的著作、”北極圏へ”というタイトルの本をみつけて、本人のオーロラに対する情熱に引かれ、一気に読んでしまったのを覚えている。ちなみに氏は故星野道夫さんとも交流があり、定かではないが、星野さんの有名なオーロラを背景にマッキンリー山を撮っている写真は、赤祖父さんがお願いをして撮りにいったんだという。その撮影の大変さについては”アラスカ光と風”(星野道夫著)のなかで時に苦々しく語られている。今回、赤祖父さんの研究についてというよりも、ある一つの”きっかけ”をテーマに書いてみたいと思う。

赤祖父さんは1930年に長野県佐久市の生まれで、父親は旧制中学校の英語教師。
自宅でも英語教育の研究に励み、家庭には本があふれていた。

 ”母がよく口ずさんでいたのが、「さすらいの唄」でした。行こか戻ろかオーロラの下を、ロシアは北国果て知らず……。5歳くらいになって大体の意味が分かってきましたが、オーロラという言葉だけは分からなかった。意味をたずねたら「遠い北国の空に現れる美しいもの」と答えてくれたのを覚えています”

 学部を卒業するころには「オーロラ研究をやろう」と心に決めたそうだが、道はまっすぐではなく、なんとか資金を捻出せねばならなかった状況だったと語っている。
その後、長崎大学で助手のポストを得たが、長崎ではオーロラの研究はできず、1年半ほどで仙台に帰り、東北大学の大学院に入っている。

 ”そのころ短波通信の乱れに関する研究が盛んで、電離層委員会という研究会がありました。大学院生も末席を汚しており、あるとき私が何かを発表したら、南極観測隊の隊長を務めた東京大学の永田武教授から「チャップマン・フェラーロの論文を読んだか」と尋ねられました。私は名前も知らなかった。そうしたら「君はオーロラについて発言する資格はない」と言われてしまいました。大学の図書館で論文を見つけて読み始めたが、難しくて分からない。そこで、論文の著者であり地球物理学の大家であるシドニー・チャップマン教授に質問の手紙を書きました。駆け出しの院生に返事をくれるはずないとも思ったのですが、すぐに返事が来て「あなたの質問には私も全部答えられない。アラスカに来て私の下で研究したらどうか」とあった。留学など夢にも思っていなかったので「貧乏院生だから無理です」と断りの手紙を書いた。そうしたら小切手が送られてきた。こうなったら行かざるを得ないということで、1958年末にアラスカ大学地球物理研究所に行きました。”

と、淡々と脚色も無く語られているが、送った手紙のレベルが桁違いだったんだろう。あるいは、氏は研究者としてつねに想像力が豊かであったと言われているため、地球物理学の権威であるチャップマンでさえも考えもしなかった発想から書かれた疑問だったに違いない。チャップマンに出会ってからは研究者として恩師の生涯を終えるまで、研究をともにしている。アンカレッジの旅行会社のA氏は赤祖父さんとよく会われており、氏の濁りない純粋な性格を賞賛されていた。一度手紙で断っているものの、”きっかけ”あるいはチャンスに対する事前の準備が整っていなければ、こういった道が開かれることはなかっただろう。それにしてもすごい幸運だ。

 現在赤祖父さんは研究所を退任されており、基本的には日本におられるそうで、11月に氏がフェアバンクスに戻るということで、会いにくるようにと呼ばれているそうである。チャンスがあれば僕もぜひ会いにいきたいものだ。


以下、日経新聞に連載された赤祖父さんに関する記事である。どんな方なのか想像しながら読んでいただきたい。


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