2008年7月28日月曜日

Life is what happens to you while you are making other plans.


それは今でも色、臭い、湿度までも詳細に思い出す。僕の人生初めての海外旅行。大学2年の終わりに行った、カナダ/バンフ。そのインターナショナルホステル(IH)ロビーでの出来事。
ぼくはそのとき、今思い返すと非常に重要な、あるチャンスを逃している。

金曜日は決まってパーティーが開かれる国際交流の場、IH。そこで僕は03年3月14日、ある人と出会っている。名前は、はっきり覚えていないが宮崎さんだったとおもう。日本人だ。
そもそも僕はカナダ旅行を野生動物の撮影のために企画し、その場にいた。一方彼はある人物の足跡を辿ってアラスカへ入る手前だった。ホステルのロビーで英語を全く話せない僕を見かねてか、声をかけてきてくれた。

「独り?」
「ええ」

「冬のバンフにひとりって、スノボ?」
「いえ。動物の写真を撮りたくて」

「へー。おれも写真には興味があってね。風景写真。」
「どう?一緒にアラスカに行かない?」
「アラスカですか?」

僕もアラスカの存在は知っていた。旅行地の候補にもあがっていたと思うが、動物写真の撮影地として王道であるカナディアン・ロッキーになっていた。

「動物の写真やってるんだったら星野道夫さんを知ってるでしょ」
「俺はあの人が好きでね。一度行こうと思っていたんだ」
「星野さん… 知らないですね」

そのとき、もし星野道夫の存在を知っていて、少しでも彼の著作に触れていたなら結果は違っていたはずだ。はじめから自由に動いていた一人旅である。滞在日数は減るものの、飛行機代当時アメリカ国内線500$くらいだろう。これくらいの予定変更は確実にできた。

「だめだな。知らないんだ。いいや」
「どんな人なんですか?」
「動物写真やってるんでしょ?帰って本読んだ方がいいよ」

その場で彼は僕を見限った。
その後、彼とは全く会話をしていない。
当時のぼくは彼との会話がそこでストップしたことの重大さに気づいていない。

帰国して、星野道夫の名前を覚えていた訳ではなく、たまたま大学図書館の書棚で「イニュニック」という星野道夫の著作を見つけて読んだ。
結局、動物写真への興味が拡大していき、必然的にその人物にぶつかっただけのことである。
読んでいくと面白い。自分がやりたいと思っていたことの大半は既に記述されており、加えていろんなアイデアを提供してくれた。自分がこれからやることのアイデアを得るものとして本を読んだ。この著作をそんなふうに読む人はまずいないだろうが。

そうして何日かしてやっと、バンフで出会った宮崎さんと星野道夫がつながった。
悔しかった。
それ以来僕は「アンテナ」の重要性を心得るようになった。
振り返ればこの「興味のアンテナ」があったからこそ図書館で本を見つけた訳だし、宮崎さんとの出会いもあったのだと思う。しかし旅行当時は今一歩足りなかった。遅かった。

知ることで広がる世界がある。自分を未知の次元へと誘ってくれる知識の貯蓄/アンテナを張ることを軽視しなくなった。そしてそこから引き起こる突然のチャンス。

アンテナを張り巡らせていなければ、突然のチャンスに素通りしてしまう。
僕はこの先あらゆることに、準備をするだろう。しかし、その計画をも無駄にし、別の軌道へ乗せていくほどのこの突然のチャンスを逃さない。

「人生とは、何かを計画している時に起きてしまう別の出来事」-イニュニック(93年12月/星野道夫著)



2008年7月25日金曜日

The sense of a child surprising me


子供の一言にハッとさせられた。
テニスコートの隅で互いに今日の出来事を話す子供たち。
その隣で僕は自分のシューズのひもを結びながら耳を傾けていた。

「わたしはね」
「送別会をやったの」
「送別会って、楽しいよね」
「なぜだか悲しいけど楽しい」
「そうでしょ?」

ダイレクトにすごく納得させられた。
いままで考えたことも無かったことが、子供の一言で気づかされることは多い。
子供と接する仕事をしている人は気づくだろうが、ほんとうに少ない語彙を使って、明確に感情を表す。もちろんそれがうまい子供もいれば、へたな子もいる。
おそらく子供は皆、鋭く事象を感じ取っているのだと思う。下手な子の場合、それを言葉にできないことの方が多いために、喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだり、時には泣いたりして表情や体で示そうとするのだろう。

例のその子はとても大切な感覚を身につけていると思った。
送別会を悲しいと感じるだけでなく、楽しいと感じる。
その子の話の中から、会のなかでのゲームや遊戯が楽しい、そういう楽しさではないということは感覚的にわかった。
友達とはそこでお別れだけど、また会えると確信しているその楽しみ。この期待にも似た楽しみはその子がちょっとした苦しい時期に、大きな支えになる。
そしてその子はまた、ふとしたときにどこかで頑張っている彼らを思い出すのだろう。
「大旱の雲霓を望むがごとし」である。「友」とはすなわちそういうものだ。


※写真は尊敬できる仲間たちが河口湖キャンプに誘ってくれた時のもの。



2008年7月17日木曜日

教育ローン問題

もし教育ローンの融資を受けることができなかった場合、来年に一時帰国しなくてはならない。
最悪の場合そこから一年間また資金集めをしなくてはならない。

現在アラスカ大学に「口座振り込み申請書」を送ってもらうように手配しているが、英語でのやり取りで一番困ることは、会話で決着がついても腑に落ちないことだ。当たり前かもしれないが日本語でのやり取りの時のような着実な感覚がない。

冷静に対処していこうと思う。

2008年7月5日土曜日

Eagle's eye


ついに手に入れた。ニコンのD300と80〜400mm 。この機能が持つ可能性に緊張する。

知り合いのカメラマンの方に安く仕入れていただいた。ヨドバシなども価格競争に忙しいが、こちらは別ルート。なんかかなり得した気分だ。いままで使用していたビギナー用のKiss × 18~200 mm に比べて3ランクくらい跳ね上がったレベルのカメラであるだけに僕にとってはまだ扱いが難しい。しかしこれを使いこなせるようにしてからアラスカ入りしなくては、あっちでのんびり説明書なんて読んでる余裕は無い。とおもう。
レンズは初めて扱う超望遠レンズ。ボディがAPS-Cなので最長 600 mm 換算だ。この猛禽類並みの目を持つメカでアラスカを切り取る。現地では極力広角レンズの使用は避けて、超望遠で大自然を切り取ってみたい。これは僕の一つの構想である。これまでに超望遠レンズだけで大自然を表現したフォトグラファーはいたのだろうか。記憶に無い。たいていは広大さ、雄大さ、悠久の自然なんてものは風景用に必須な広角レンズでの写真が一般的だろう。写真の前で思わず深呼吸してみたくなるような見渡す限りの大自然の写真、そんな写真を撮ることにも憧れないわけはない。しかしそれよりも、写真の前で息をのむような、自然の荘厳さを持つ写真にもっと僕は憧れる。例を挙げれば、狩りのシーンもそうである。しかも、たとえばグリズリーが生きるために仕方なく草食動物を襲う。そんな窮地のシチュエーションには緊迫感があり、クマの表情も全然違う。他にはオオカミがこれから狩りに出かける時のハウリング(遠吠え)もいい。空腹時の切迫感と、狩りの成否による群れ内部の社会的地位の交代から来る緊張感との二重の緊迫感が彼らの目つきを変える。そんな状況を写し取ることができればどんなに幸せだろう。超望遠レンズとD300でなくてはならない理由はそこにある。
そんなもの撮ってどうなるんだなんて思う人もいるだろう。少なくないはずだ。しかし僕にとって、どうなるかなんてそんなことはどうでもいい。カネになるならプリントするし、ならないなら世に認知されていないだけだろう。まずは自分がそのシーンを、個体の表情を見たいだけ。そしてそれを残しておきたいと思うのみである。

2008年6月25日水曜日

家庭環境

大学時代の友に会いにいった。
2001年の学部入学のガイダンスのときに、「東京から来てるんだね」と僕の方から声をかけた。
たまたま隣り合わせた大講義室のなかでのことである。それからもう7年が過ぎた。
一蓮托生という言葉がある。彼についてはそんな言葉が僕との関係の上で成り立っているように感じることがしばしばある。

現在彼は日本の最高学府で人類の遺伝子についての研究を進めている。ここで研究内容を詳細に記すことはできないが、正直面白いと思った。遺伝子は本来はすべてが必要なものとして生物学的に生まれてきたものなのだが、現代の人間においてはそれが裏目に出ることがある。悪しきは食生活などの生活習慣であると。そんな感じの内容だ。酒の席では神経を集中させて内容を聞かないとそう簡単に理解できることではなかった。いまだによく分からない点もある。なにせ最先端の研究である。論理構築が非常に困難で、発表に妥協するとすぐに論駁される危険性を感じた。初回の公表の場が勝負だろう。応援する。

ただしその危険性もかなり希薄なものかもしれない。というのも彼は論理的思考力に優れているが、そこに非常に大きなバックグラウンドを感じたからである。

特定すれば、家族間での会話である。僕は彼の家に泊めてもらい、その環境を覗き見た。まず感じたことは家族同士で会話が多い。そして、会話のなかで論理的に甘い部分があると、その他のメンバーも含め突き詰める。大学院生活が長いこともあるだろうが、こういった幼少期からの家族間での会話のキャッチボールを着実にしてきたからこそ、僕との会話でも論理的だし、逆に理解力があると感じさせるのではないだろうか。それが学会などの場で活かされるまでに昇華していくのだろう。

対称的に僕の方は言葉で理解させられることよりは感覚的なことの方が多かった気がする。おかげで人の表情や行動を見ることで何を考えているか察知することは得意な方だ。もともと動物が好きで小さい頃から動物の喜怒哀楽に触れてきたこともある。そんなことも影響しているのかもしれないが、辿るとそれも父親が動物番組を良く見ていたことからの影響である。それを考えると、人の性格/思考回路というのは遺伝的な要因もあるだろうが、結局のところ家庭環境からの影響が強く出るのだと改めて考えさせられた。

2008年6月21日土曜日

Darwin exhibition




ダーウィン展に行った。
時間があったので、すべての活字解説に目を通した。ダーウィンは22歳のころ、運よくビーグル号に乗船でき、世界一周の旅に出た。そこの解説のある一節が非常に印象に残っている。「ダーウィンは出発前は無知な収集家だったが、5年後帰った時には一流の博物学者になっていた。」と。 また、船舶滞在中は膨大な量の書物を読んでいて、一流の地質学者や生物学者との手紙でのやり取りをしていたということも非常に興味深かった。
もちろんダーウィンは自分の力だけでそういったチャンスを物にしていったわけではなく、もともと名家の生まれで非常に環境に恵まれていたこと、それによって世界の一流人物とコンタクトを取るチャンスにも恵まれていたことは覚えておかなくてはならない。ただし、それらの恵まれた境遇を棒に振らず、貪欲に、自分の興味のために利用していった強かさには感心させられる。アメリカの16代大統領であったエイブラハム・リンカーンと35代のジョン・F・ケネディが比較されることがよくある。そこである作家がケネディのほうが立派だったという。それはなぜか。リンカーンは貧しい家に生まれ、生きていくための勉学が必然だった。やらなければ死を意味する環境だった。それでのし上がった。対するケネディは裕福な家の生まれで、のほほんと遊んで暮らせた。しかしそんな何もしなくていい環境に生まれながら、非常に強い問題意識と情熱を身に付けていった。そこがケネディの偉いところだという。これには納得させられた。
ダーウィンも境遇としてはケネディのそれと似ていたのだと思う。非常なまでの、今で言うオタク的な好奇心でチャンスを活かすことを考えていった。
そんな経緯が展示で伺えたため、面白かった。

先述したが、5年間という月日がダーウィンを変えた。その航海での彼のしるした日記の内容には、船酔いしながらも胸の躍るような生物種との出会いや、興奮しきった状態で語る地質変動の一説が翻訳されていた。この5年間で、膨大な量の情報(intelligence)と自ら構築した転成説(後の進化論)をもって、その後生涯をかけて論理構成する(進化論を完成させる)ための素地を作った。この5年間は現代になって知られた、当時にしてみればダーウィンにとっての修業時代だったといえる。
僕は偉人たちの自伝を読むのが好きだが決まって共通する点を見出す。そしてそこがその本の核ということになるのだが、すべての偉人たちに共通する点は、ジャーナリストの立花氏の言葉を借りれば、「謎の空白時代」をすごしているという点である。謎の空白時代とは、世間一般、誰にも知られること無く、長い間修業し、知識や技術を自分のなかに蓄積することである。20代でそれを過ごした後、30代で、その知識や技術をアウトプットしていく。この将来のための知識・経験の蓄えが、本人の身を支える。どんなに貧しかろうが裕福であろうが自分に対する自信を持つに至るこの時代。そんな確固たる自分を築く時代が謎の空白時代である。偉人と言われるが天才ではない。すべてが興味に対する固執と努力から成る、言うなれば創作である。


2008年6月17日火曜日

Adventure on my own risk

アラスカ大学のハウジングサービスの方と電話で連絡を取った。
こちらから一ヶ月前に送った寮の申請書に関してなんの応答も無かったからだ。

電話をしてみて改めて「まずい」と思った。
電話でのネイティブとのやり取りはかなり難しい。
自分がアラスカに渡るまでのうちにこの申請と、授業登録と、編入の申請は電話で済ますしか方法は無い。
とりあえず、今回のコンタクトは大学側から、寮に関しての説明をメールで送るから、それについて返信してね。と3回くらい繰り返してもらって納得した。

僕のこれからの旅の最大の障壁となることだろう。勉強せねば。